心情倫理の政治家と、責任倫理の政治家(311後の世界11)

遠い昔に紐解いた、マックス・ウェーバーという大学者の書いた座右の書『職業としての政治』に、政治家がとるべき倫理態度として、責任倫理という言葉が出てくる。これは、政治家以外の人間が一般的にとる倫理態度としての、心情倫理と対比して称呼されている。
この本を通して、およそ政治家たるもの、行為の基準をものごとの単純な良し悪しのものさしで測るのではなしに、行為の結果に責任をもつことに基準を置かなくてはならない、ということを習った。ウェーバーはそのことを、政治家をめざすなら「悪魔と契約すること」も辞さない覚悟が必要だ、と言っているのだ。
が、どうやら日本の政治家は、責任倫理の政治家だけではなく、心情倫理の人物もいるらしい。責任倫理の政治家の行為の基準は結果責任に求められるから、彼はおよそ法や一般道徳に抵触しない限りにおいての、あらゆる手段を駆使して、情熱と責任感と判断力で果実を得るべく努力することだろう。


もう一方の、心情倫理の政治家は、おそらくかなり政治的センスのない代議士先生だ。たとえを具体的に言えば、善からは善が、悪からは悪が生まれるという、大人が子どもに教えるには適しているが、政治家がそう信じるにはあまりにナイーブな信念に基づいて行動する政治家である。
責任倫理の政治家とは、早い話が、被災者救済を優先して、目の前の政局を収拾するため、多少トリックには見えるかもしれないが、辞任すると見せて内閣不信任案を否決に持ち込む、といった政治手法も(時には)肯定できる政治家だ。彼の目的は、あくまで塗炭の苦しみの下にいる被災者を救うというところにあるのであって、権力を温存するためなどではけっしてない。
ここで心情倫理の政治家は、大事な「覚書」の文言のひとつも厳密にチェックせず、言ったいわないで気分を害し、あろうことか同じ党派の領袖に対して、「ペテン師」などという(子どもじみた)批判を公言してしまう。なによりも、政治の結果責任を放棄して、心情で物事を判断するから、有権者そっちのけで、騙した騙されたなどという個人的感情が行為の動機になってしまうのである。
妥協のない原理主義者と言えなくもないが、原理など何も持ち合わせていないのだから、始末に困る。
野党の攻撃を回避し、被災者支援を第一優先に考えるなら、幹事長や官房長官、副官房長官と策を練って、一世一代の芝居を打った首相を、「ペテン師」呼ばわりする道理などないはずだ。
無論、首相は復興基本法、2次補正を成立させ、日米首脳会談を成功させた後には退陣する意向だったはずだが、ここへ来て、鳩山前首相が「ペテン師」などといかにもナイーブな心情倫理の政治家の発言を繰り返すので、ついに8月退陣ということになってしまった。
これで、またしても米国の信用を失墜してしまうのだが、個人的な心情だけで行動し、国益が眼中にない政治家にとっては関係ないことなのであろう。
こう書いたからといって、特段、私が首相のファンだとか何だとか、そういう話ではない。今は、内閣が総辞職したり、解散総選挙になったり、与党が分裂したりしては困る、というだけである。
さらには、あまりにナイーブな心情倫理の政治家も、いては困るなどとも言っていない。時には、対立するグループ間を調整して、本人の希望には沿わないかもしれないが、結果として国民を利する働きをすることもあるからだ。
今回の内閣不信任決議案回避を導いた仕事などは、将来に渡って、日本の政治史に記憶されるべき業績ではないか。そんなことを言われても、本人は何のことか分からないかもしれないが。
近い将来、復興が軌道に乗り、あのフクシマの惨状が回復する目処が立てば、そのときこそ、政治決戦を行って、日本政治をほんとうの意味でリセットするべきだ、とそう思う。政治家先生方には、思う存分戦ってもらいたいし、それが日本のためになるなら、責任倫理とか心情倫理とか、もってまわった言い回しなどどうでもいい。
そして、前外相や、現官房長官、あるいは現幹事長が、政治の結果責任をまっとうする政治家なら、誰がリーダーになってもいいだろう。以前、枝野官房長官は、長官になる前に、(そのときの国益を無視して)心情に基づいて中国批判を繰り返していたのが、いささか心配ではあるが・・・。

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