見ないことの不可能性をめぐって

先日、蔡國強の展覧会『帰去来』を観に、横浜美術館へ出かけた。氏の代表作ともいえる、「壁撞き」を観たかったから、である。

美術批評家の宮川淳が残した有名な言葉に「見ないことの不可能性」という言葉がある。もともとはモーリス・ブランショが言ったのだが、美術雑誌やWebサイトで宣伝される作品「壁撞き」の画像を見て、この言葉はまさに蔡國強の大作のためにある、といってもいいような気がしたのだった。

蔡國強はこの展覧会を『帰去来』と名付けたが、それは20年ぶりに彼が日本に帰ってきた展覧会のためだという。
それに、彼の名が知られるようになったのは、北京オリンピックのいわゆる「鳥の巣」で開会式が行われた際、派手に打ち上げられた花火のアートの時からだろう。また、蔡國強の2次元作品は紙に火薬を撒いて点火する方法で作られている。横浜美術館を入ってすぐの中央ステージに飾られた巨大な花火絵画が圧倒的な量感を誇っていた。

が、お目当は「壁撞き」なのであった。
これは羊の毛などを使って作られた剥製と見間違う完成度の、99体の等身大の狼が、ガラスの壁に突進する様を、動画映像のコマ割りのようにして展示した、巨大な作品だ。
カタログを見ると、ガラスの壁の高さはちょうどベルリンの壁と同じであるとか、東西ドイツ統一後の見えない壁を象徴している、と書いてある。とすると、この作品は政治的メッセージを表しているのだ、などと言ってしまいそうだ。

が、私が言いたいのは「見ないことの不可能性」のほうである。
「絵画は、イマージュの危険な魅惑、見ないことの不可能性を見ることの可能性に馴化することによって、はじめて絵画として制度化されてきたのではないだろうか」と宮川淳は言う。「イマージュとは対象の不在を通じて、なおその不在の対象について語ることをわれわれに許すものにほかならない」のだ。
ということは、われわれが絵画的(あるいはオブジェでもいいが)対象に見ているものは、ほんとうは何物かの似姿としてのイマージュなのではなくて、イマージュそのもの、現実から自立したそれそのものなのだろう。

「壁撞き」を日本の観客はどう見たか。突拍子もない連想だが、海洋堂の精巧なフィギュアが、巨大に作られている、と感じたのは私だけだろうか。そうして、フィギュアとは世界を自分のものにしたい、という欲望の発露である。というより、フィギュアとは自己そのものであり「人形を愛する者と人形は同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛だったのである。」(澁澤龍彦『少女コレクション序説』)

イマージュをコミュニケーションと読みかえれば「現代がコミュニケーションの時代であるとすれば、それは単にマス・コミュニケーション・メディアが極度に発達した時代という意味にとどまるのだろうか。そうではなく、その真の意味は、より深く、つぎの事実にこそ求められるべきだろうーコミュニケーションの主体である個人からのコミュニケーション過程そのものの自立、そして、もはやなにごとかのコミュニケーションではなく、コミュニケーションそれ自体のコミュニケーション。」という宮川淳の議論に行き着くだろう。
(蛇足で付け加えるならば、当今流行りのSNSなども、SNSの向こう側にいる誰かが主体なのではなくて、コミュニケーション自体が自立しているというべきだろう。とすれば、SNSの「友達」はもはや自分自身でしかないとも言えるだろう)
だから、イマージュは、あるいはフィギュアは、何物かの似姿ではなくて、それ自体で自立したイマージュ、言ってみれば自己愛(自己言及と言ってもいいが)そのものなのにちがいない。

人形愛の欲望を駆動する「壁撞き」はだから、「見ないことの不可能性」をもっとも体現する作品ではないかと、そう考えたわけだった。
ほんとうは蔡國強にかこつけて、個人でもできる花火アートに言及したかったけれど、それは後日ということで。
(それにしても、アートに言及すると、いつも話が理屈っぽくなってしまうなあ)

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