311後の世界に、少し飽きたので、本のことなど。
最近、ニーチェを取り上げる本が多い。
それも、ニーチェの専門家ではなく、まるで畑違いの書き手の作品だ。
有名なのでは、斉藤孝のニーチェ本。それに、ベストセラーがかなり長く続いている『超訳 ニーチェの言葉』だ。
この本、タイトルの頭に「超訳」とついている。「超」とは何か。意訳とはちがうし、抄訳でもないとしたら、実に奇妙なタイトルだ。
中の文章には、「たとえば仕事の場合では、売り上げを伸ばすことだけがたった一つのなすべき目的のように錯覚してしまったりする。しかしそうすることで、仕事をすることの意味は失われてしまう」などというのが出てくる。
「売り上げ」などという言葉を、ニーチェが使ったようには思えないので、こういう訳しかたを「超訳」と名づけたのかもしれない。現代風に、文章をアレンジしたということか。
月別アーカイブ: 2011年6月
大連立(311後の世界12)
週刊誌も夕刊紙も、首相退陣近しと見るや、「次は枝野か前原か」と大見出しで書き立てている。まあ、週刊誌や夕刊紙が、内閣不信任決議という格好の記事ネタが終わったら、現金にも次の政権の首班のことを論ずるのは、少しでも潜在読者の関心を高めて買ってもらおうというのだから、これはいい。(そうでなくても、新聞雑誌が売れないのだから、多少は扇情的に書き立てないと)
しかし、国中こぞって政局談義に花を咲かせるようでは、いかがなものか、と思わざるを得ない。毎年毎年、カレンダーではないのだから、首相を新品に取替えないと気のすまない国など、世界のどこの国が相手にするだろう。少なくとも、国と国との約束は、危なくてできないのではないか。
それでも、「次は枝野か前原か」になってしまうのが、今の日本の政治の惨状だ。(「次は福田か」「次は麻生か」などとついこの間まで言っていたはずだが)
心情倫理の政治家と、責任倫理の政治家(311後の世界11)
遠い昔に紐解いた、マックス・ウェーバーという大学者の書いた座右の書『職業としての政治』に、政治家がとるべき倫理態度として、責任倫理という言葉が出てくる。これは、政治家以外の人間が一般的にとる倫理態度としての、心情倫理と対比して称呼されている。
この本を通して、およそ政治家たるもの、行為の基準をものごとの単純な良し悪しのものさしで測るのではなしに、行為の結果に責任をもつことに基準を置かなくてはならない、ということを習った。ウェーバーはそのことを、政治家をめざすなら「悪魔と契約すること」も辞さない覚悟が必要だ、と言っているのだ。
が、どうやら日本の政治家は、責任倫理の政治家だけではなく、心情倫理の人物もいるらしい。責任倫理の政治家の行為の基準は結果責任に求められるから、彼はおよそ法や一般道徳に抵触しない限りにおいての、あらゆる手段を駆使して、情熱と責任感と判断力で果実を得るべく努力することだろう。
永田町がフクシマを作った(311後の世界10)
東電幹部とフクシマ住民のあいだの、あまりの距離。それと同じくらいのギャップが、永田町の先生方と、日本の一般庶民のあいだにはある。
この非常時に(今を非常時と呼ばずに、いつをそう呼べばよいのか)、政局とは、ずいぶんと庶民を馬鹿にした話だ、という想像力が働かないのが、今の先生方なのであろう。暢気に、与野党の有志で「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」など作ってみたり、与野党の数合わせで内閣不信任案を提出してみたりと、やるべきことを放っておいて権力ゲームにうつつを抜かすのが、現代日本の政治なのか。
政治家は永田町で夜な夜な会合を重ねることで忙しいが、ボランティアはゴールデンウイーク返上で被災地に入っていた。先生方は(田中康夫ちゃんを除き)、テレビでしか被災地を感じていないのではないか。東北出身の小沢一郎にしてからが、あまり地元に入っていないと聞く。
いや、もしかしたら、フクシマの人災を作ったのは、能天気な永田町そのものではなかろうか。地上がダメなら地下に原発を作ればいい、という安易な発想をする人たちが、知らない間に日本全国に危険な原発をばらまいてしまったのだ。
とすると、「永田町がフクシマを作った」と短絡してみてもいいのではないか。
その証拠に、今なお終息が見えないF1(福島第一原発)をそっちのけで地下原発の議論を始めるという、センスのなさ、「空気」の読めない感受性を持った先生方がたくさんいるではないか。
「不安」の気分と縁遠い方々(311後の世界9)
5月31日の記事で「地下原発で超党派議連」というのがあった(時事通信社の記事)。
曰く「与野党の有志による「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」が31日発足し、衆院議員会館で初会合を開いた」とのこと。その会長が「たち日」の平沼氏。顧問が森元首相、民主党の石井一副代表らというのがおかしい。へえ、結局彼らは仲良しなんだ。
地下に原発を作れば、地震にも耐えられるし、万が一放射能モレが起きても地下なので影響がないだろう、という安易な発想だ。実に能天気ではないだろうか。
いくら地下だとは言っても、原子炉の爆発でも起きれば、地下水だって汚染されるし、なにより従業員の安全だって脅かされる。たしかに、東京都の真上から、雨水とともに放射性物質が落ちてくることはないだろうけれど。
彼らにとっては、今の日本の一般大衆の「不安」の気分など、まるで感じられないのだろう。どうせ作るのならば、東京都のど真ん中に、穴でも掘って作ったらよかろう。なにせ「安全」なのだろうから。
がっかりするのが、こういう発想をするのが、与野党超党派の議員というところだ。今の政治家は、どうして揃いもそろって危機感の欠如した輩ばかりなのだろうか。
彼らには、フクシマの人たちの苦しみなど、まるでわかっていないのであろう。実に、「空気」の読めない方々ばかりだ。2ちゃんねる風に言うならば、少しは「空気嫁」。
日本の多くの人びとの「不安」を感受する能力のない政治家には、政治など手がけて欲しくない。