永田町がフクシマを作った(311後の世界10)

東電幹部とフクシマ住民のあいだの、あまりの距離。それと同じくらいのギャップが、永田町の先生方と、日本の一般庶民のあいだにはある。
この非常時に(今を非常時と呼ばずに、いつをそう呼べばよいのか)、政局とは、ずいぶんと庶民を馬鹿にした話だ、という想像力が働かないのが、今の先生方なのであろう。暢気に、与野党の有志で「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」など作ってみたり、与野党の数合わせで内閣不信任案を提出してみたりと、やるべきことを放っておいて権力ゲームにうつつを抜かすのが、現代日本の政治なのか。
政治家は永田町で夜な夜な会合を重ねることで忙しいが、ボランティアはゴールデンウイーク返上で被災地に入っていた。先生方は(田中康夫ちゃんを除き)、テレビでしか被災地を感じていないのではないか。東北出身の小沢一郎にしてからが、あまり地元に入っていないと聞く。
いや、もしかしたら、フクシマの人災を作ったのは、能天気な永田町そのものではなかろうか。地上がダメなら地下に原発を作ればいい、という安易な発想をする人たちが、知らない間に日本全国に危険な原発をばらまいてしまったのだ。
とすると、「永田町がフクシマを作った」と短絡してみてもいいのではないか。
その証拠に、今なお終息が見えないF1(福島第一原発)をそっちのけで地下原発の議論を始めるという、センスのなさ、「空気」の読めない感受性を持った先生方がたくさんいるではないか。


内閣不信任案を成立させ、解散総選挙に入れば、争点は原発の是非のはずだった。来る選挙には、これだけは鮮明にしてもらいたいものだ。現代日本で、原発は踏み絵になったのだ。ここを曖昧にするのはいけない。
原発是非、どちらをとってもよいだろう。はっきりとした意見をもってすれば。しかし、間違えてはいけないのは、庶民の目線で意見を述べているかどうか、ということだ。
間違っても、地下に原発を作るのだから、俺たちが料亭で遊んでいても、文句など言うな、という態度は示さないがいい。
とはいえ、一触即発の危機は回避され、踏み絵を見ることができないのは、よかったと言っておこう。ここ最近、民主党では分裂の危機になると、鳩が飛び回って、小沢グループと菅グループの間を取り持つ光景が何度も見られたが、今回もやはりそうだった。そうでなくては存在感を示せないというのも、前首相の役回りだからだろう。
人によっては、日和見主義を嘲笑う向きもあるかもしれないが、鳩山前首相は誰もやらない、やりたくない、やれない役回りを演じているのだから、そう馬鹿にしたものでもない。
そうして、政治は結果責任だ。近い将来の退陣を約して、この場を乗り切るのも、英断にちがいない。いったん内閣不信任案を否決に持ち込んでしまえば、いいのである。菅首相は、退陣表明に、微妙な言い回しを二つ付け加えていた。
ひとつは、「若い世代に責任を譲る」という言葉。これは、小沢一郎その他、旧世代に政権を渡すのではなく、枝野、前原といった新世代にバトンを渡すというメッセージだ。まちがっても、谷垣総裁などに政権を渡すものか、ということだろう。
ふたつめは、「復興に目処がついたら退陣」という言葉だ。鳩山前首相は、復興基本法と2次補正成立後の退陣という意味だ、と捉えているが、岡田幹事長はあくまで「復興にめどがついたら」という言葉のとおりで時期は未定と言っている。これを受けて、鳩山前首相は「うそです。先方がうそをついているだけです」と子どものような反応だ。
若い世代に、近い将来、復興の目処がついたら政権を譲る、という言葉の解釈なら、当たり前のことを言ったに等しい。小沢元代表は、静かに身を引いたが、そんなことは百も承知で矛を収めたにちがいない。「空気」(というより潮目か)の読める政治家だからだ。
敵方と通じてもいなかったため、惨敗を喫した、当の自民党総裁は、川中島の詩吟などを持ち出していたが、インタビュー映えするように一生懸命この言葉を捜していたのだろう。「流星光底逸長蛇」。早い話が、他人頼みの戦だったので、空振りしたまでのことだ。
さて、民主党からは小沢一郎元代表ら計15人の欠席・棄権があった。彼らのことを、今さら責めることはよすことにしよう。矛を収めたのだから。
処罰されてしかるべきなのは、松木謙公前農水政務官と、横粂勝仁だ。だが、後者はすでに離党届を提出していたので、松木謙公だけが除籍になった。次の選挙では、震災そっちのけで政局にうつつを抜かしていた、「空気」の読めない議員として、国民の審判を仰がねばならないだろう。

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