ヘーゲルの不安(311後の世界5)

以前、このサイトのどこかに、ヘーゲルの有名な主と奴の弁証法を取り上げた。
そこにも、不安が重要なキーファクターとして出てくる。
主は、主として人間的にふるまうことができるが、奴が人間的であるのは、最初は自己が主に対して隷属的である中で人間性を次第に発展させ、完成することによる、というちがいがある。つまり、奴は主の命令によって生かされているに過ぎないから、自己の人間性は、自らの自由にならないが、一方、主は何者にも妨げられることなく、主体的に自由を行使できるのだ。最初は。


しかし、やがて、奴は主と共同体に奉仕するために、自己の労働によって、所与の世界を作り変えてゆき、自由な公民として自己を創造し、終局的には充足に至る。一方、主の主体性は、奴の労働に依拠しているから、終局的には奴の存在がなければ、主の存在自体が成り立たなくなる。
こうして、主客はやがて逆転するのである。
つまり、本来的な人間性、歴史を創造する主体としての個人は、主ではなく、奴なのである。(万国のプロレタリア、団結せよ、という按配になる)
ただし、ここで奴が、奉仕と労働を行うのは、主の下で脅かされることによる、死の不安の下での自由や、創造であることが重要だ。つまり、人間の意識の窮極は、不安にあるのだ・・・
・・・などといういかにも哲学っぽい議論を、大哲学者ヘーゲル先生は述べられているのである。ごほん、と咳払いのひとつもしたくなる、偉大な説なので、ここに書き付けるのもおこがましい限りであるが。
不安について書いた哲学者は、それこそ星の数ほどいるけれど、有名なハイデッガー、キルケゴールその他の先生と並んで、哲学界のドンであらせられるヘーゲル先生がどうお考えになっているかを取り上げてみた。
ふだんは気づかない生活者の不安は、ひとたび大事件が起きると、日常性が消え去って、根本的情調性として露わになってくる。それが不安の意識である。
しかし、不安がなかったところにあらたに不安が生じてきたのではなく、元々あったものがあらためて見えてきた、と思うほうがよいのではないか。
そうして、公共への奉仕や、地道な労働も、元々、不安の下にあったのだ。いわば、我々日本の庶民は、一生働かないで食っていけるようないい身分ではまるでなく、公共のためになる仕事を地道に続けるしかないことを、特にバブル以後は骨身に沁みているにちがいない。
と、それに近いことをヘーゲル先生が述べていたと、そう私は読んでいるのだけれど、少し間違っているかもしれない。(少しぐらい間違っていてもいいだろう)
そんなわけで、地震活動期に入った日本では、たびたび日常性が破られて、本来ある不安な気分がたびたび露わになってくるにちがいない。311後の日本の不安は、だから根源的な不安が、東海地震や放射性物質汚染や、はたまた病原性大腸菌などさまざまな具体物に投影して見えてくる。が、それらの不安の根源は、今述べたようなしかけに構造化されているのである。

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