空気の研究(311後の世界6)

気分について書いたのなら、この本に触れないわけにはゆかない。
山本七平の代表作のひとつの『空気の研究』だ。
近代以降の日本は、理性では間違っているとわかっていながら、抗することのできない「空気」が支配している、というのがこの本の主張だ。太平洋戦争末期の、戦艦大和の沖縄出撃も、戦術的にはまるで無謀とわかっていながら、誰もそうとは言い出せない「空気」が支配していた。あるいは、著者の担当編集者は、「いや、そう言われても、第一うちの編集部は、そんな話を持ち出せる空気じゃありません」などと、「空気」に自らの意思決定が拘束されていることを暴露する。


発掘調査の最中に、人骨が大量に出てくると、他の国の人びとは平気なのだが、日本人はノイローゼになってしまう、というエピソードが紹介されている。「骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない」と著者は言う。つまり「おそらくこれが「空気の基本型」である」らしい。
ことほど左様に「空気」の支配は、日本においては強力だ。
同じコトを著者は、対象の臨在感的な把握と呼ぶ。つまり、対象に感情移入することにより、物神化とその支配に屈している、ということだ。
ユダヤ教やキリスト教に詳しい著者のことであるから、この本でも、日本人と西欧人がたびたび対比されるのだが、西欧人の固定倫理に対して、日本人は状況倫理で行動する、と説明される。「日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない「父と子の隠し合い」の世界であり、従ってそれは集団内の情況倫理による私的信義絶対の世界になっていくわけである。」
このあと、「水を差す」ことや、日本の根元主義(ファンダメンタリズム)についてなど、いろいろな角度から論じられている。が、一言でいえば、著者自身、フィリピンで砲兵として塗炭の苦しみを味わうに至った原因は一体なんなのかを論じようとしたのが、この本だろう。
そこで、著者は、太平洋戦争が終わっても、いまだにあのときのような「空気」の支配は根強く残っていることを論証する。のみならず、山本七平は、いつ何時、「空気」が原因であの狂った大戦争が繰り返さないとも限らないと警告しているのにちがいない。
以上、山本七平の「空気」を、気分と近縁の概念として取り上げた。
が、気分が根本的情調性というなら、「空気」とは少しちがうような気もする。「空気」のほうは、大震災後の「自粛」ムードや、「がんばろう、ニッポン」などといった言わずもがなのプロパガンダがそれに近いだろう。こんなことを言うと、大顰蹙を買いそうだが。
しかし、「自粛」のすぐ後に、「自粛するとますます経済が停滞して復興にマイナスなので、自粛を自粛しよう」だの、「がんばろう、は被災者には心の負担になるので、言うのをやめよう」だのと、「空気」はずいぶんと流れを変えてしまった。これも311後の変革期の「空気」のありようなのかもしれない。
いや、きっと311後の「空気」は、かつてないほどに変容を遂げたのだ。なぜといって、311前の日本は、経済至上主義の言説が支配的で、よろず景気さえよくなれば式の「空気」が蔓延していたからだ。
ところが、休みを返上してまでボランティアに出かける人々が現れ、怪しいものさえあるのに、街頭募金が始まると、我先にと小銭どころか札まで入れる人が出てくる。つまり、人びとの間にあるのは、良識ではなくて善意なのだろう。
山本七平なら、これも日本人の「空気」のしからしめるところだと言うかもしれない。が、私はむしろ今までの、経済至上主義でありながら経済に疲弊した「空気」が消し飛んで、むき出しの不安の気分が露わになり、そこに新たな「空気」が生まれては消えしているのが実情ではないかと、そう思う。
いや、ここのところは、まだ現在目の前の出来事なので、これからどう動くのかなんとも言いがたい。しかし、不安の気分が姿を現してしまった今は、ますます何かしないではいられないにちがいない。
「被災地のために私たちのできること」という言葉を、今日も公共放送のアナウンサーの口から聞いた。まこと、良識的な言葉であるけれど、これも私たちの不安の気分の代弁なのではないか、と思ってしまう。何かしなくては、という焦りも、不安の気分から来るものだろう。
しかし、できることなど限られている。不安の種をひとつひとつ潰してゆくために、小さいことを為すので十分だ。

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