野火 新たに生まれた人間改造のイメージ

塚本伸也監督の『野火』を観てきた。上映後、観客は、いちように重々しい顔で映画館を出てきた。次々と兵隊が殺されてゆくときの、あまりにグロテスクな戦闘描写に辟易しながら。これほどリアルな反戦映画は他にない、というところかもしれないが、ほんとうにそうだろうか。

ねじ切れて、切り口が石榴のように赤々と輝いた二の腕。噴水のように吹き出す血潮。顔面の半分が深々と削げ落ちて、垂れ下がる顔。腸がどくどくと臍のあたりから溢れ出る描写。
しかし、これを見ている視点は、監督自らが演じる主人公のものなのであろうか。あるいは第三者のそれであろうか。おそらくそのどちらでもなく、これらむごたらしい戦争シーンは、およそこの世にありえない人間改造の想像イメージなのかもしれないのだ。あたかも『鉄男』の変身シーンのように。

クローネンバーグやデビッド・リンチのファンなら、塚本晋也監督の戦争描写に思わず膝を打って共感するかもしれない。これぞ、人間改造の美学(といっては不謹慎かもしれないが)であると。
たとえば、語り尽くされたエヴァンゲリオンには、2号機のアスカが、量産機に喰われる問題のシーンがある。エヴァンゲリオンは拡張された人間なのだが、人間を超えるのは同じエヴァを食うシーンだった。あきらかにエヴァの影響を受けている『進撃の巨人』では、巨人が人間を食らうシーンがこれでもかというぐらい出てくる。というより、人間をつかんで口に入れ、歯で噛み千切るという、およそそれまでの漫画では描かれたことのない人間改造のイメージが新鮮(!)で読者の心をつかんだのにちがいない。が、これはよく考えると、2015年の映画『野火』における、現代に蘇った人肉嗜食のテーマと極めて似通っているのだ。

別の言い方をすると、唐突だけれども、(フランスの哲学者フーコーがいう)生権力(biopouvoir)が生身の身体に強く及んできている現代日本の状況を、表現者がそれと知らずに表現したのが、これら過激な人間改造、人が人を食うイメージなのかもしれない。平たく言えば、権力がはっきりした命令や脅しで人を強制・矯正しようとするのではなしに、動物のようにただ生きているだけの生を強いられている状況(動物化)をイメージしているというわけだ。早い話が、人に食われるのはすでに人ではなく、家畜でしかない。
遠く1895年に発表されたウェルズの『タイムマシン』では、獰猛な地底人が、地上で平和に暮らす人間たちを捕食して食う世界を描いている。ウェルズは資本主義と階級構造の究極の姿を、鋭い想像力を駆使し、動物化して暮らす人間たちが共食いをする、というイメージですでに描いていたのである。

『野火』の主人公は、餓死寸前のところを「猿の肉」を与えられて生き延びる。そうして、最後に「猿」の正体がわかったところでパニックに陥り、否応なしに人間の域を超えてしまう。つまり「人間(という近代の概念)は死んだ」(フーコー)のだ。新しい人間改造のイメージによって。体だけでなく、心も(生権力に管理され)改造された主人公の悲しみが、食事をするたびに祈るような動作をしなければ食うこともかなわない、『野火』の描写に現れている。ちなみにこのシーンは、1951年の原作とは表現がちがうことを指摘しておきたい。

http://nobi-movie.com

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です