書籍の復権(311後の世界14)

シャープのガラパゴスが、発売10ヶ月目で撤退した。
このことは、電子書籍事業を推進しようとしていた、同業他社に少なからぬ動揺を与えたにちがいない。
それかあらぬか、シャープは撤退発表の直後に、ガラパゴス事業は継続し、今後は書籍だけでなく幅広いコンテンツを扱うことが可能な、新しい端末を市場に再投入すると「わざわざ」付け加えた。
この報道を知って、市場は今後の電子書籍市場の行く末を、どう捉えただろうか。
のみならず、日本の書籍市場の行く末さえも、案じられるような事態に見えただろうか。
市場がどう反応するかはさておき、今後、書籍が復権するためには大事な条件があると、私は思うのだ。
以下に、その理由を書いてみる。


電車に乗って見渡すと、新聞はおろか本を開いている人間など、実に少数派だ。かろうじて、朝の電車で経済新聞の朝刊を開いている人がわずかに見受けられるが、大多数はケータイやスマホに見入っている。
電子書籍事業の推進者たちは、本を開いてくれないなら、スマホで読むコンテンツをせめて既存の書籍にしてほしい、と願っているにちがいない。(新聞社なら、新聞の電子版を、と願うだろう)
ところが、狭いスマホ端末の画面では、書籍を読むのは実にひと苦労である。
私は以前、文庫本を何十冊も裁断して(つまり「自炊」して)、スマホに入れて持ち歩いていたのだが、ほどなく止めてしまった。
購入してダウンロードした書籍も、活字は大きくてけっこうだが、やはり読みづらく、2冊目は買わなかった。
電子書籍の識者は、これはひとえに端末の問題だ。いや、コンテンツが充実していないせいだ、と既存のフレームで改良を目指しているようだ。
しかし、問題はそんなところにあるのだろうか。
多少読みづらかろうが何だろうが、読者としてはケータイでメールやWEBをいじることよりずっと重要な情報が、電子書籍(あるいは紙の書籍、雑誌なんでもよい)から得られるのなら、そちらにアクセスするだろう。
現に、原発事故の後、一部の雑誌は売り上げを伸ばしているという。
つまり、テレビや新聞の報道は、信用できないか、あるいは情報が少ないので、あえて雑誌を購入して情報を得ている、ということだ。
「アエラ」9月26日号で内田樹は、在任9日で辞任した鉢呂前経産相に対する、ふたつの世論の評価を取り上げている。新聞各紙は、辞任は当然という見方で一致しているが、ネット上では「原発推進派とメディアが失言をとらえて「はめた」という謀略説が流布している」という。これにつき「原発事故以来、新聞・テレビの形成する世論と、ネット世論がことあるごとに対立しはじめたというのは間違えようのない事実である。私はこれを危機的な兆候だととらえている」という意見である。
「それは戦後日本が経験したことのない種類の「国論の分裂」である」というのが、内田樹の見立てである。
私も、既存大メディア(新聞、テレビ)と、ネットの言説が、原発事故以来、大きな乖離を示している、という見方に同意する者だ。テレビの解説委員やコメンテーターが何度も「ただちに健康に影響のあるレベルではありません」と言うたび、その言葉があまりに紋切型であるだけでなく、どこかで誰かにそう言え、と言われたかのごとく一字一句同じ表現であるのに、かえって不安になっていた。
これは私だけではないだろう。
結果、ネットの書き込みを探り、デマや放言の類をかき分けて、ほんとうのことを書いた文章はないかと当てもなく時間を費やしていた。震災に関する記事が載った雑誌を手に取り、別の意見はないかと探し回る日々が続いていたのだ。
こんな姿は単にノイローゼにすぎないと、周囲からは思われたかもしれない。が、そうでもないことを、最近、さまざまな人が書き始めたのである。
フォトジャーナリストで、チェルノブイリの取材を長年続けてきた広川隆一は、近著『福島 原発と人々』(岩波新書)でこう書いている。
—以下、引用—
東電と政府は事故の状況を隠そうとした。なぜ電源が喪失したのか、どれくらい放射能が出たのか、人びとはどれくらい被曝したのか、手を打った処置が効を奏したのかどうか。情報を自分たちで管理するために、いくつかのキーワードを用いた。
「想定外の事態」「原子炉は管理下にある」「ベントで出る放射性物質は微量である」「ただちに健康に影響が出るレベルではない」「万全を尽くしている」という言葉などである。
それ以上の追求を押しとどめる役目を果たす言葉も準備された。
「いたずらに不安をあおる」「不正確な情報に惑わされないでほしい」
「危険な状態にある」と書いたり話したりすることは、すべて「いたずらに不安をあおっている」とされ、「不正確な情報」ということになった。何が正しい情報かを決めるのは官邸であり、保安院であり、東電だった。
—引用、終わり—
著者は、「旧ソ連の政府のほうが、日本よりも妊婦や子どもの健康に気をつかっていた」と例を上げて示している。
旧ソ連では、三〇キロ圏の住民の避難について、「その日のうちに、まず妊婦と子どものいる家族が避難した。そのほかの人びとが避難したのは翌日だった」という。「日本の福島原発事故で、政府はこうした妊婦や子どもへの配慮を全くしなかった。「安全です」と言っているのに二〇キロ圏外の住民を避難させるわけにはいかないと思ったのだろう」と書いてある。何ということだ。
ことここに至っては、政府、新聞、テレビの情報だけでは、我々は正しい事実にアクセスできている、とは言いがたいだろう。
情報に玉石混交はあるだろうが、ネットや雑誌、書籍から得る情報を求めるほかない。
すなわち、(雑誌も含めて)今こそ書籍が復権するときではないか。
媒体の形式が、電子書籍であるか、既存の紙メディアであるかは問わない。
新聞、テレビが報道しない真実を書くことこそ、雑誌や書籍に課せられた、311後の役割なのだと、そう言えるのではないだろうか。
というわけで、書籍(雑誌も含めて)は、意外なことに今こそ復権を遂げる時が来た。
今後、このサイトでも、『「フクシマ」論』その他、テレビ、新聞ではあまり取り上げない書籍から情報を得て、311後の日本の変わり様を捉えてみたいと思う。

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