311後の世界まとめ(311後の世界13)

ここらで、いったん、311後の社会的事件と空気の変遷をまとめておこう。(ここでは地震、津波そのものの被害の記録は除いています)
1)震災パニック期
震災の翌日、新聞各紙には大震災の規模に驚倒し、「阪神の180倍」「1千年に1度」という見出しが躍った。アナログ放送終了間近のテレビに釘付けにならない人はいなかった。
そして、3月13日には、早くも東電の計画停電が発表され、週明けの月曜日からほぼ1週間、特に東京都の勤め人は大混乱に陥ったのだった。都心の交通網が、いかに危ういバランスの上に成立しているかが身にしみた。
震災の当日の夜や、翌週の帰宅時間、電車が時間どおりに動いてくれず、10キロも20キロも歩くはめになったりした(健康にはよかったか)。
また、この時期、店も早く閉まってしまい、買い物にも苦労した。水が買い占められ始めたのもこの頃だった。ガソリンもおよそ1週間の間、手に入りづらかった。ガソリンスタンドも横柄な態度だったが、1週間経つと、手のひら返して親切になったのが、おかしかった。


2)プチナショナリズム=自粛期(1)
こういうタイトルで書くのは、反発を買うかもしれないが、CMが自粛され、ACの”ぽぽぽぽ~ん”ばかりが流れる中、「日本は強い国」「がんばろう日本」といった文句があちこちに広まった(今も基本は「がんばろう日本」だが)。
同時に、アメリカの新聞は「不屈の日本」(3月13日)と書き、「なぜ略奪ないの?」(3月16日)と驚きと称賛のメッセージを伝えてきた。これもナショナリズムに呼応していたところがある。
一方では、あの天邪鬼の石原知事が、この期に及んで「津波は天罰」(3月15日)などというものだから、当然叩かれて、謝罪する、というようなことも起きた。
この時期、菅首相はすでにいろいろ叩かれていたけれど(震災前からだけど)、不眠不休で頑張る枝野官房長官は、「枝る」(4月8日ごろ)という造語で、褒められていた(?)。のちに復興担当相となり、すぐに辞任した松本防災相は、枝野長官の陰に隠れて、姿を見せなかったのだが。
3)プチナショナリズム=自粛期(2)
さまざまな風評バッシングが起きていたのもこの頃だ。東電に対する批判は仕方ないが、パニックとなって水やガソリンを買占め、福島産や茨城産の野菜を買わない消費者に対しては、批判が巻き起こった(水の買占めは、3月23日の金町浄水場からの放射性物質検出から起きた)。
まず、3月20日ごろ、すでに茨城産ホウレンソウ撤去の動きが起こり、それに対して風評による不買を非難する声があちこちで起こった。枝野長官がパフォーマンスでトマトをほおばったりする姿を報道したり、私の友人たちも、あえて被災地の野菜を買って食べる、という人間がいた。
一方で、識者は3月15日の雨の日、放射性物質が雨滴とともに地上に落ちるので、外出は控え、ぬれないようにと警告したが、あまり注意する人たちはいなかったようだ。だが、結果的に、3月15日と21日の雨が、関東にもかなりの放射性物質を降下させることになった。
この頃、表紙に「放射能がくる」と書いて発売したアエラが、「風評被害を煽る」と批判されて、謝罪した(3月21日)。連載していた野田秀樹も、最後のコラムにアエラ批判を書いて、降板した。
が、後知恵ではあるが、アエラの記事内容は間違っていたのではないだろう。それかあらぬか、ここ1、2ヶ月ほど、アエラは毎週のように放射性物質による汚染の記事をこれでもかというように連続で書いているが、誰も批判などしない。松戸市や流山市の放射性物質汚染について書いても、アエラに謝罪を求める人が今ではいないのだ。
4)自粛への反動期
4月16日、福島県の30kmの避難区域外の飯館村の放射能レベルは、人が住めるそれではない、と京大の研究チームが発表した。この後、あちこちで放射性物質が思いもよらない所から検出され始め、空気が変わり始めた。
5月1日、1都4県での検査で、23人中7人の母乳から微量の放射性物質が検出された。さらに、5月11日には、神奈川県の南足柄の、足柄茶の葉から、規制値を超す放射性セシウムが検出された。
この時期には、半減期の短い放射性ヨウ素はすでに消えてしまっていたため、セシウムがあらためて検出され始めたのだろう。
7月に入ると、牛の飼料の藁が汚染されていたため、岩手、栃木、秋田、宮城産の牛から放射性セシウムが検出されるという衝撃の事実が発覚した。のみならず、7月27日には、栃木県産で東北4県に出荷された腐葉土からもセシウムが発見。汚染がどこまで広がっているのか、予想もつかない事態になってきた。
この間、「アエラ」は、5月30日「放射能と子ども」、6月6日「放射能と食品」、6月13日「放射能とがん」、6月20日「放射能汚染マップ」、6月27日「放射能と闘う母」、7月11日「詳細放射能マップ」、7月18日「魚と濃縮放射能」、7月25日「除染すべき「幼保園と学校」」、8月1日「「積算線量」全国マップ」と立て続けに、放射性物質汚染を記事にしてきた。関東圏の子どもをもつ母親が、放射線測定器を持って、あちこち測る姿(被災地でもないのに)を記事にしたりと、自粛期への反動とも言える、実に攻撃的な記事ばかりで、これが3月の時点なら風評バッシングで叩かれていたはずだが、すでに空気は変わっているのだろう。
5)原発をめぐる闘争期
5月6日の菅首相の浜岡原発停止要請から、一気に政治、マスコミ、世論が原発の是非を議論しはじめた。
池田信夫のような人は、「メルトダウン」という言葉を使うのはやめよう(5月15日)、と言っているが、原発推進派はあくまで今回の事故は特殊事例と論じている。が、今になって(5月24日)、福島第1原発の2・3号機の炉心も溶融していたことが明らかになった。3月時点では誰もそうは言わなかったのに、である。ほんとうのところ、東電は知っていて言わなかったのではないか、と疑問の声があがったのは当然だ。
この頃(特に6月)、首相の早期退陣を求める声が、野党からだけではなく民主党内でも広まり、内閣不信任決議案に与党からも大量の同調者が出そうになったが、危機一髪で回避された。菅首相が自ら「退陣」を口にしたから、ということだが、本人はいつか退陣する、と述べたのを、鳩山前首相が「すぐに退陣する」とミスリードしたような格好になってしまった。
一方では、いったん再稼動を決めていた玄海原発は、菅首相の「ストレステストをしてから」の一言でストップになり、梯子をはずされた海江田経産相が号泣した、という事件(?)もあったが国民は誰も同情しなかった。6月15日には、澤地久枝さんらが発起人になり、「脱原発」へ向けて、1000万人の署名が開始されたりし、世論は反原発に傾いていたのだ。
その状況を見てなのかどうか、菅首相は「脱原発依存」を宣言。内閣としてではなく、個人としての見解というが、首相の発言なのだから、それで十分だろう。しかし、「脱原発」ではなく「脱原発依存」というところがミソだ。原発から脱却はできないが、依存はやめる、という謎カケか。
これに対して、自民党の谷垣総裁は、明確に「原発再稼動は必要」と言い(6月25日)、民主党の前原氏は、菅首相の「脱原発」は「ポピュリズムにすぎない」と批判した(6月26日)。こういうところは、与党も野党も足並みが揃うらしい。
しかし、玄海原発を再稼動すべきかのテレビ説明会で、九電が子会社社員に、「原発賛成」のやらせメールを送らせたことが判明(7月6日)。7月29日には、原子力安全・保安院も、四国電力に対し、シンポジウムで原発推進に都合のいい「やらせ発言」をさせるよう指示していたことが明らかになり、原発推進派は旗色が悪くなってしまった。
順調に原発の運転再開を目論んでいた経団連の会長は、原発再稼動中止に対して「こんなばかな話は、考えられない!」と机を叩いて激昂したらしいが、この人は推進派の頭領だろう。
いずれにせよ、ふりかえると、最初のパニックの時期のあと、被災地のために風評で「放射能汚染」を口にするのはやめよう、という自粛期があった。が、そのうちだんだんと調べると汚染の事実が判明して、自粛気分から怒りのモードになり、今まで表立って反対してこなかった世論は反原発に傾きだした。慌てた経産省や財界は、反・反原発で運動を始めたが、ボロが出てきている、というところだろう。
これに伴い、311後の日本人の価値観も大きく変化し、バブル期からずっと引き摺ってきた「経済至上主義」から、やっとほんとうに大事なものはお金では買えないことに気づきはじめた。
311後の議論は、ここから始めるほかないにちがいない。

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