書店は瞬時に情報の歪みを除く市場だ。

『佐藤可士和の超整理術』を、広告代理店出身の編集者に薦めたら、こんな反応が返ってきた。
マーケッターは無色透明になろうとしている。
自分の好みを入れずに分析する。
対して編集者はマーケット分析すらせず、自分の好みで押し通す。
佐藤の本を編集論として読むのは無理があるのでは?
そうだろうか。
改めて書店というものを見てみよう。
今更ながら本の多さに驚く。
書店はまるで株式市場のようなものだ。
足りない情報は瞬時に充足され、株価に反映される。
消費者が足りないと考える本は瞬時に書店に充足される。
たとえマーケット分析すらしない強引な企画であっても、何人もの著者や編集者の活動を通して、それらは消費者が足りない情報を満たしていく。
結果として、マーケッターが考える読書市場を実現する。
マーケッターと編集者は、まったく異なるアプローチで、同じ結果を作り出すのだ。
だから、この本を編集論として読むのは可能なのだと思う。

書店は瞬時に情報の歪みを除く市場だ。」への1件のフィードバック

  1.  佐藤可士和、好きじゃないのですが、あまり桜井さんがほめるので、読んでみました。
     本というのは、著者の考えを世に出すものですが、商品として成立させるには角度や何らかの付加価値をつけるべき、それをやるのが編集者の役目とつねづね思っているので、観点の導入とその支えになる情報を“活かせる状態にしておく”というのはうなずけます。編集論の本としてすんなり読めます。ここまでシンプルに「編集者の役目」について書いた本はなかったのではないかとも思います。
     ただし、凡人である私は、その作業とは技術であり、それには習熟と世界像の構築(別に偏ってて可)の双方が必要だろうと考えています。可士和の本で言えば、前者は、アイデアも含め広告物として定着させる技術、後者は問診力であろうと思いますが、可士和の積み上げが透明に書かれているので、読者はわかる人とわからない人に分かれると思います。
     後半のケーススタディは、その透明なところが読み応えがなくて、あんまり面白くありませんでした。これがプロダクトデザイナーならば、技術とか物理的な限界や、現場との葛藤があるのでもう少し面白いと思うのですが、可士和は「線を1万本描く」とか下積みのことは出したくないみたいですね。マーケティング的にはうまい誤解の招き方なんでしょう。
     ところで、この本は書名で損をしていると思います。英文書名に本質をついたタイトルが書かれているので、わざとなんでしょうけれど。今日の日経に全五段広告が出ていましたが、こちらも「読まれています」というマーケティングの王道のコピーだけでイヤ。
     まあでも、最初の80ページぐらいに1500円払う価値は十分にあると思います。

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