脳ブームと心について

脳科学のブームはいつ始まったのだろう。

科学ならまだしも、脳ブームとさえ言われていて、大豆、チョコレート、魚(ドコサヘキサエン酸)、ピーナッツから始まって、卵だとか、はたまたご飯(しょっちゅう食べてるよ!)が脳の活性化に役立つとかなんとか、喧伝されている。現代の日本人にとっては、脳科学から科学も取っ払われて、脳大好きな国民になってしまったかのようだ。

トンデモ本に書かれるならまだしも、最近ではビジネスの現場まで侵食され始めて、脳の活性化するノートの取り方とか、あのマインドマップさえ埃を払って取り出されているようだ(マインドマップって、私もそうだが、一度はやってみて、放り出したはず)。脳科学の知見に基づいたビジネスセミナーが開かれて、まっとうなエリート・ビジネスパーソンが踊らされている。
果たして、実利いっぺんとうの脳科学(まがい)で我々の生活が豊かになるのであろうか。

などと書くと、まっとうな脳科学者からお叱りを受けそうだ。それで気になって、脳科学会のホームページを開くと、精神医学、薬理学、神経生物学、脳神経外科学、神経生理学、神経内科といった専門の先生方が、お名前を連ねていらっしゃる。心理学を専門とする先生方も。気になったのは、脳科学という名称が一つもなかったことなのだが。

それで、マスコミ露出が多いので批判も多数受けているけれど、日本を代表する脳科学者(なのかもしれない)茂木健一郎の本を手にとって、あらためて脳科学とその周辺を考えてみた。
「「脳」整理法」(ちくま新書)を紐解くと、脳科学ブームの一端に触れていた。曰く「ドリルをやると、脳のここが活性化する。男の脳と女の脳は、ここが違う。脳を鍛えるには、こうトレーニングすればよい。巷には、さまざまな脳の指南本があふれています。テレビでも、脳についての情報やノウハウを扱う番組が増えています」ということだ。
これを科学的に表現すると、「脳の活動に伴う血流量の変化を視覚化した機能的磁気共鳴映像法(fMRI)などの画像を見ると、いかにも説得力がありそうに思われます。たとえば、このドリルをやると、前頭葉のここが活性化しているといわれれば、自分もそのようなことをやってみようと思うのが、当然の人情でしょう」という仕儀になる。

この脳ブームに対して、茂木健一郎自身は脳科学者であるのに少し懐疑的だ。「脳のようなきわめて複雑な研究対象を前にして、科学は、基本的に統計的な真理しか扱うことができません。ドリルをやると前頭葉が活性化する、というようなデータも、多くの被験者にドリルをやらせて、その平均値として提示するしかありません」というのである。
また、脳への偏愛は、実は自己愛が姿を変えたものかもしれず、「黙々とジムでマシンを使ってトレーニングする人たちに通じる、ちょっとナルシスティックな感覚も、昨今の「脳ブーム」周辺には見受けられます」と自己批判的なのが意外だった。

脳科学者・茂木健一郎自身は、脳を研究しても心の問題は解決できないことを、よくわかっているからである。「私たちの心が物質である脳からどのように生み出されるのかという、いわゆる「心脳問題」の解決」はまだできていないのだ。「私たちが意識をもつという事実の背後にある第一原因を解明できないことが、今日、知的な意味での科学的世界観の「限界」を画するものと考えられています」

彼のクオリア理論などについて、私は勉強が足りないのでよくわからないが、少なくとも人間の意識や行為、もっといえば心の問題は、現在の脳の科学では解決できていない、と脳科学者自身が言っているのである。脳の活性化が、すなわちビジネスパーソンの意識の変革にまで直結するとは言いがたいだろう。

脳内の神経伝達物質が変わっても、人の心が変わらないとする。じゃあ、ビジネスパーソンの心に火をつけるキッカケはどうつかめばいいのか、いやそもそも心ってなんなのだろう、と考えてみた方がいいのではないか。脳で解決できなければ、心ではどうだろうかというわけだ。

そう思って、昔読んだ、橋爪大三郎の「「心」はあるのか」(ちくま新書)を思い出して、取り出してみた。

しかし、この本ではのっけから心の存在そのものに疑問を呈する。脳科学でダメなら心理学を、と思うのだが、「「心」といえば心理学です。私は大学生の時に心理学の授業を受けたのですが、そこで分かったことは、心理学は「心」を研究していないということでした」とショッキングなことが書いてある。

「行動主義(心理学)は、「心」を研究しないで、行動を研究するのです。行動は目に見え、測ることができます。なぜ行動を研究するかと言えば、その背後に「心」があるのでは、と考えたからですが」ネズミの研究ばかりして、人間の心はよくわからなかった。
一方、哲学も心をよく扱うが、「けれども結論は簡単で、哲学者たちは「心」の存在について概して懐疑的です」と身も蓋もない。

その後、この本では、いつものように、意識について、言葉について、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論について、ていねいにわかりやすく説明してくれるのだけれど、肝心の心については、最後まで奥歯に何かが挟まった感じが拭えない。
曰く「心は、「心」そのものとしてはありえない。他のものと切り離してしまうと、「心」は「心」ではなくなってしまう。「心」が表出される場所は、言葉や行為です。言葉や行為というその表れにおいて、「心」があるのではないか」。
何か、わかったようで、わからないような。

さらに「「心」というものは、理解されることで、そこにあるように見えてくるのではないでしょうか。「心」は理解されること、分かることと密接に関連していて、ほかの人に全然理解されず、自分にとってもあやふやな心は、「心」ではないと思います。」
つまり、言いにくいけど、心などない、と橋爪大三郎は言っているのではないだろうか。

とすると、茂木健一郎がいう「心脳問題」、すなわち脳という器にいかにして心が宿るのか、という疑問に対する答えは、心はなくて、言葉や行為があるだけだ、ということになる。
つまり、言葉や行為が先にあって、そのあと心が生じてくる、とでもいうような。とすれば、心は脳の中にはないことになるし、科学では(物資ではないから、見えないので)捉えられないことになるだろう。
であれば、すべてを脳に還元する唯脳主義は改められるべきだろうし、なんでも実利に結び付けようとする脳ブームほど危険なものもないだろう。
逆にいえば、言葉や行為を扱う人文科学も、今少し見直されていいのではないか、とそう思う。

ついでにいえば、このコラムを書いたきっかけは、中森明夫が2015年11月10日のツイッターで、以下のように痛切に嘆いていたからだ。
—–
大学の教養課程はなくなった。もう取り返しがつかない。大学は理系化、実学化を加速する。仕方ない。が、たった一時間でいい。ゴーギャンの絵を見つめ、思索する課程を作ったらどうだろう。絵のタイトルは…「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか?」
—–
まったく同感である。今の脳科学では、我々の出自や、脳の外にある我々の精神や、我々の未来は到底わかりようがない様子だから。

「脳」整理法-ちくま新書-茂木健一郎

「心」はあるのか―シリーズ・人間学-ちくま新書-橋爪-大三郎

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です