不安な気分(311後の世界2)

311後の世界を象徴する、もうひとつの現象は、不安な気分だろう。
「不安」とか「気分」とか、あんな大災害が起きたのだから、当たり前だろうと言われるかもしれない。
しかし、ここでいう「気分」とは、その昔、実存哲学、特にハイデッガーが言った「気分」のほうに近い。ハイデッガーの「気分」とは、単なる知覚や感情ではなく、人間の存在を規定する時代精神の根本的情調性のことだ。
根本的情調性などという、わけのわからない言葉を使うのはやめてくれ、と言われそうなので説明すると、ふだんは気づかないが、ひとたび大事が起きると露わになってくる、人間の存在を基礎づける根本的「気分」のことである。
同じコトをたとえば、藤田省三氏は、太平洋戦争直後、思想の崩壊した後、その土台を構成する「気分」や情緒というものが注目されたと言っているが、311後はちょうど同じことが起きているのだろう。


今回の大地震、原発災害といった非日常の大事件が起きると、ふだんは露わにならない、人間の根本にある「不安」の「気分」が露わになってきてしまった。ここで言う「不安」は、感情ではなく、まさに気分である。
「気分」というものは、「感情」とちがって対象をもたない。好ききらいは何ものか(対象)に対するのに比べて、「気分」は原因が何かわからない。つまり、311後の世界の「不安」は対象が特定できない「不安」なのである。
対象が特定できないから、「不安」に対して何をしていいのかわからず、皆、買占めに走ったりするのだ。水を買っても、菓子パンを買っても、トイレロールを買い占めても、ますます「不安」は募るばかりだ。「不安」の原因が何か、本人にはわからないからだ。
だから、水を買い占める人を馬鹿にしたり、福島産の野菜や魚を忌避したりするのを「やめよう」と言ってみても、「不安」そのものを消し去ることにはならない。解決にはならないのだ。
この「気分」が、未来に投影されたものが「死への不安」だ。逆に言えば、「死への不安」がふだんは気づかないが根本にあり、すべての権力欲、金銭欲、名誉欲などの基礎になっているのだ。
言ってみれば、大地震と原発事故が起き、ふだんは隠れていた「死への不安」が露わになったため、買占めや購買忌避に走るのだろう。
ただし、「死の不安」がなくなってしまえば、権力も金銭も地位も、何物でもなくなり、社会の秩序は崩壊するだろう。それがいいことかどうか、わからない。
が、しかし、戦後長いこと続いてきた日本の思想が崩壊した今、この一瞬に、権力も金銭も地位も何の意味を持たない、ありのままの姿(不安の気分が捉えているもの、リアル?)が顔を出しているのかもしれないのだ。

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