政治家の倫理、タイガーマスクの倫理

ついに内閣改造だ。下馬評どおり、仙石官房長官は「無念の」交代となった。「無念」かどうかは一市民にとってはどうでもよいが、代わりの官房長官が問題だろう。


・・・いや、正確には問題なければいいが、というところだ。
つまり、ふつうに考えれば、官房長官を枝野氏にしたりするのは、非常に考えものだろう。もし何の問題もないとしたら、彼が中国に対して発した暴言を、一夜にして翻して見せるのならば、という条件付だ、と言っておこう。
党の幹事長などとはちがい、官房長官は政府与党の中枢、司令塔、スポークスマンであり、外務大臣以上に外国からは注目されているだろう。他国にいろいろな思いはあるだろうけれど、私情にかられて思うさまをぶちまけていい、などということにはならないのである。
なぜといって、政治家の倫理は、一般人の倫理とはちがうからだ。・・・そう言ったのはマックス・ウェーバーだが、彼は倫理には心情の倫理と、責任の倫理があり、政治家に求められるのは、後者による結果責任だと述べたのだ。ウェーバーは、政治家を目指す学生に向けての講演で、結果のために、政治家は悪魔と手を結ぶこともしなければならない。その覚悟がある者だけが、政治家を務める資格がある、とそう語りかけたのである。
心情の倫理で、「中国は悪しき隣人」「法治主義の通らない国」「戦略的互恵関係なんてありえない」などと一私人が放言するのはけっこうだが、結果責任を問われる政治家の言葉としてはあまりに軽すぎるだろう。もし、枝野官房長官がその責をまっとうしようと思うなら、口を拭って前言を翻してみることだ、とそう思う。
同じような理由で、メディアに叩かれている小沢一郎氏の評価も決まるだろう。
小沢氏に関しては、メディアによっても評価に違いがあるようで、産経新聞などは恨みでもあるみたいに(きっとあるのだろう)かみつく一方、日刊ゲンダイなどはむしろ小沢氏を追い詰める側の首相に手厳しい。テレビ局のインタビューなどでは、街行く人たちが、小沢氏は国会に出て身の潔白を証明すべきだとか、なんとかしゃべっているけれど、よくわかって言っているのか怪しいものだし、映像を選別しているにちがいない。
野党の党首は、ここが勝機と言わんばかりに攻め込むが、対する与党の幹事長自らが、小沢氏の政治倫理審査会出席を強く求めているものだから、どちらが攻めでどちらが守りなのかよくわからない格好だ。
が、一市民としては、どちらが正しいか、どちらに正義があるのかどうか、などということはまるで関係ないはずだ、と言っておくことにしよう。政治家を評価するための正しい軸は、結果にあって、その心情などにはないのだ。一市民にとって、最大利益をもたらすことのできる政治家こそが、よい政治家だろう。
一方で、結果責任ではなく、心情の倫理で行動していいのは逆に一市民のほうである。そのいい例が、列島を多い尽くすタイガーマスク運動なのではないか。世知辛い昨今の日本に、まだこんなことが起きるのか、と感動せずにはいられないが、心情の行為が許されるのは(虎の仮面を被っているけれど)一市民だけだ。
対するに、政治家は悪魔とさえ契約して、結果を生み出さなければならない、美談とは縁遠い、辛い職業なのである。

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