3年で辞めた若者はどこへ行ったのか

ビジネスマンのメタフィジックも、だいぶ間が空いてしまった。このまま、連載(?)終了になると、誰もが思われたであろう。(というより、誰も読んではいないだろうけれど)
しかし、しつこく続けるのである。なぜといって、現実のビジネスの世界は、さまざまな難問が待ち構えていて、今すぐにでも、メタフィジックによる解決を求められているからだ(って、ほんとか?)。
そうした要望に答えて、今回は、難問のひとつである「なぜ若者は会社を3年で辞めるのか」という課題に取り組むこととしよう。(って、そんなに簡単に取り組めるものか?)


かつて、飲み屋で一杯やっているときに、生真面目な若手ビジネスマンが、大真面目になって「何のために仕事をするのか」などという話題で話しているところに出くわした。こっちは疲れ果てているのに、飲みにきてもそんな話題かよ、と閉口していたら、ひとりが「自己実現」と答えた。すると、他の面々も、口々に同意するのである。
へー、生活のため、とか遊ぶため、とか言うのかと思っていたら、なかなか殊勝だな、と思う反面、大丈夫かいな、と心配になってきた。どいつもこいつも、判で押したように、研修とかビジネス書で聞きかじってきた用語を使うのだ。しかも「自己実現」とは!
彼ら若手ビジネスマン、けっして不勉強などではない。むしろ、マズローの欲求5段階説などを几帳面に信じて、その5段階目の「自己実現」が成就できそうもないことを悲観して、その後、早々と会社を辞めてしまったのである(さすがに、食欲とか生存欲求とかは満たされていたらしいので)。
ほんとうは、4段階目の「承認欲求」を満たすところから始めればいいものを、どこから聞き及んだか、悪しきマズロー主義のために、若者は皆、「自己実現」を果たそうとどこかへ出かけてしまったのだ。
しかるに「自己実現」など果たせるのは、超人的な能力を持つスポーツ選手や、才能豊かなアーティスト、はたまた才能もないのに運をつかんだ一握りの者たちだけだ。
だから、「自己実現」を目指して、まるでロードムービーのように旅に出た若者たちは、知らない間にネットカフェを住居にして、いまだに故郷に帰れないでいる・・・
・・・のかと思っていたら、そうでもないらしい。
ベストセラー『若者はなぜ3年で辞めるのか』を書いた城繁幸氏の続編、『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』を読むと、年功序列や終身雇用、滅私奉公といった”昭和的価値観”を捨てて、大企業をスピンアウトした若者たちの成功事例が、綺羅星のように登場する。
そうか、彼らはほんとに「自己実現」をしつつあるのだな。すばらしいことだ・・・。
しかし、よく読めば、この手の本の成功事例は、例外なくハイ・パフォーマーのそれである。もともと能力の高い若者が、大企業に見切りをつけてつかんだサクセスストーリーをいくつも並べられると、かなりげんなりしてくるのだ。
ウェブを活用して仕事をこなし、「けものみち」を歩くことを説く、若手の星、梅田望夫氏の『ウェブ時代をゆく 』の議論も似ている。超人的な才能にめぐまれて「高速道路」を行けない人でも、”努力すれば”「けものみち」で成功することはできる。だから、古い価値観を捨てて、オプティミズムでネットを活用して成功しよう、といったわけだ。
ここで言われる「けものみち」とは、スポーツ選手になれなければスポーツ評論家に、将棋の棋士として食えなければ、その評論家に、といったたぐいの比喩である。
この○○評論家、というのが曲者だ。なぜなら、こうした商売だって、けっして「けものみち」などではなく、相変わらずネットカフェに居る若者(といっても20代後半から30代前半の就職氷河期の世代が主だけれども)にとっては縁遠い世界である。
”努力すれば”彼らにも好運がありそうだが、日本の企業は彼らが新卒だったときに、一度しかチャンスを与えなかったではないか。。。
いずれにせよ、成功者の結果事例を聞いても、若者のためにはならないのだ。
一方、すれっからしの古だぬきを自称する、哲学者の内田樹氏なら、こう答えるだろう。
氏は、新聞社からの「どうして若者たちは働く意欲がなくなったのでしょうか?」という取材に対し、こう答えるのだ。
「それは彼ら彼女らが「自分のために働く」からであるとお答えする。労働はほんらい「贈りもの」である。すでに受けとった「贈りもの」に対する反対給付の債務履行なのである」(『ひとりでは生きられないのも芸のうち』)
つまり、「自分のために働いてはいけない l’un pour l’autre」というのである。
若者たちが子どものころ、「他人のことはいいから、自分の利益だけ配慮しろ」と教えてきたために、「気がついたら、「できるだけ集団に帰属せず、何よりも自分の利益を配慮する人間」がめでたく社会のマジョリティになっていたのである」ということだ。
だから氏は、若者が「十分な社会性を備えた共同体」のメンバーになるよう、教育することが涵養だ、という考えだ。
内田氏の議論を、細切れに引用すると、いかにも”昭和的価値観”の古臭いロジックだと思うかもしれないけれど、私の引用のしかたがいけないのであって、文章はもっとずっとスリリングで面白い。皮肉たっぷりでもあるしね。
私の言い方でいえば、大事なのは「自分化」した若者に、もう一度共同体の規範をきちんと伝えてゆくことだ。しかも、現代のガタが来た企業や地域共同体のそれではなくて、かなり古い、言ってみれば2000年前ぐらいの(!)規範を。
ひところ、中高年のあいだで、「自分史」を書くのが流行ったことがある。もしかしたら、メディアに唆されただけであって、「自分史」特集の記事が氾濫していただけであったのかもしれない。
ともかく、「自分史」は、日本人の価値観が「自分化」するのとパラレルであったと思う。しかし、当の「自分化」をしたのは、世代で言えば10年前の10代~20代前半の世代であったろう。皮肉なことに、若者が「自分化」したばっかりに、共同体に受け入れられなかったのは、「自分史」などを書こうとして一行も書けなかった中高年たちの企業が、バブルの崩壊で傾いてしまったからなのだ。
というわけで、「自分化」して「自己実現」をめざした若者を、「自分化」しきれなかった中高年が共同体に迎え入れるのを拒否したのが、「なぜ新入社員は会社を3年で辞めるのか」に対する答えである。かなり雑駁ではあるけれど。
ところで、共同体といっても、いろいろだ・・・と、次は共同体について一くさり述べようと思ったが、また今度。
秋葉原で、7人死亡、10人怪我の通り魔事件が起きたようだ。25歳の犯人は、「世の中がいやになった」と述べているという。「自己実現」なんてレベルの話ではない。そんなわけで、またもや筆が重くなったのだ。。。

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