宮崎学の『ヤクザと日本』(ちくま新書)を読んだ。

想像していたとおり、宮崎学は、ヤクザ擁護論を周到な準備の上に、さまざまな角度から説いている。日本のヤクザが、欧米のマフィアとちがって、いかに仁義に厚いか。さらに、ヤクザの起源は芸能民と関係があり、近世のヤクザは庶民にとって必要な自警団の役割も果たしていた、というのである。近代のヤクザは、戦後資本主義の勃興に伴って、権力に利用され、はたまた捨て去られた、周縁の存在となっている。・・・などなど。


宮崎氏曰く、権力というモノは、いつの時代も社会の周縁の力を利用して、利用しつくすと捨て去るのである。つまり、明治政府も、統幕のためにヤクザものの集団の力を大いに利用したけれど、いったん権力を握ってしまえば、清水の次郎長はじめ、代表的な博徒らは、みな迫害されてしまったのだ、ということだ。(このことを、共産党一斉検挙といっしょに論じているあたりが、元民青同盟員の氏らしい)
権力のやり口は、いつもこうなのであり、毛沢東の中国でもこれは同じだ、と宮崎氏は言う。実にナイーブな考えだ。
しかし、これはよく考えれば、およそ組織があるところ、皆、そうだろう。会社組織などは、この典型である。・・・などとペシミスティックに語るのは、私がすれっからしであるためかもしれないが、こういうリアリズムは、普通に必要なのではないだろうか。
しかるに氏は、藤原正彦なんかを取り上げて、彼が「武士道精神が廃れたから日本はダメになったのだ」という説を批判している。武士というものは、本来、人殺しの専門家だったのであり、その精神をきちんと受け継いでいるのは、江戸時代の支配階級の武士ではなく、町奴や火消し、ひいてはヤクザものだったのである、ということだ。
つまり、彼ら周縁の存在が、権力に対抗する勢力でありつづけた、というわけである。
なるほど、宮崎氏らしい考えだ。
ここらへん、昔の映画、勝新の『兵隊ヤクザ』を思い出してしまう。
また、丸山眞男が、小工場主、町工場の親方、小売商店の店主など旧中間層の権力への対抗の方向が、結局ファシズムにつながったという考えに対しても、反論している。”近代主義者”としての丸山は、彼ら中間層が、「小天皇」としてふるまったというが、宮崎氏は、そうでもない一面もあった、というのである。
あげくのはて、「下流化」と「格差社会」という社会現象が現れている今の日本で、「構造改革」とは裏腹に官僚支配が強まっているのが現状であるとして、「談合」も必要だ、とまで結論付けるに至っては、ヤクザ肯定が、土建屋肯定論、ひいては宮崎学の自己肯定の哲学となって終わっているので、拍手したくなってきた。
無論、拍手して、肯定しているのではないけれど。
とまあ、宮崎節全開の本として、気持ちがとげとげする日には、ぜひ一読をお薦めする本ではあります。任侠映画を観たあとみたいで、いい感じです。
そんなわけで、私はけっこう宮崎学氏の本、好きなんですけどね。
『突破者』、面白くてよかったですし。

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