新書の山の中に見つけた、宝石

内田樹著、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)を読んだ。
毎月、山ほど新書が発刊される中で、読んで少しでも面白い本を探すのはたいへんだ。ましてや、読んでよかった、と思える本など希少価値だろう。
そんな中に、たまに掘り出し物を見つけると、ずいぶんと得をした気分になる。いや、今回紹介する『私家版・ユダヤ文化論』は、タイトルからすると、とても売れる本には見えないけれど、そして、読みたくなるような本ではないけれど、読んでよかった、本なのだ。いや、現代を読み解く上で、必読と言ってもいいだろう。それに簡単に読める、新書の形式だ。なんでこんな本が、新書の山の中に埋もれたままなのであろう。と、思っていたら、小林秀雄賞を受賞した。これで陽の目を見るというものだ。


この本は、まず、ユダヤについての本である。タイトルがそうなのだから、まちがいない。しかし、それ以上に、現代を、特に西欧世界、いや(中国やインドを除いた)現代世界すべてのアキレス腱を描いた本である。
まず著者は「第1章 ユダヤ人とは誰のことか」という章で、
「私たちは「ユダヤ人」という社会集団名称を辞書的意味に限定して用いることができない。私たちはつねに何らかの価値判断込みでしかこの語を用いることができない。」
と語る。「中立的・指示的な意味で用いることがほとんど不可能」というのである。たとえば、ユダヤ人問題は幻想だ、と喝破したマルクスでさえ同断だ、ということだ。かなり過激なユダヤ人論なのだ。
「私たちはユダヤ人を擁護するか、断罪するか。ユダヤ人の存続を支持するか、その消滅を要求するか、どちらかの立ち位置を決めた後になってからしかユダヤ人について語ることができない。」
こんな面倒な話があるのだろうか。日本人のわれわれでさえ例外でないのはなぜなのか。著者はこうした疑問を、次々に解消、あるいは粉砕してゆく。「ユダヤ人について、いかなる偏見も先入観も抜きで語ることができる」と主張する人に対して、著者は「私はそのような主張を信じない」と断言する。
こんな語り方は、実は非常に危険なことだと言えるだろう。一歩間違えれば、反ユダヤ主義者の語り口をそのまま踏襲してしまいかねない。著者自身、そのことに十分気づいている。しかし、あえてユダヤ人擁護や、人権的立場から書いたりはしないのである。
ユダヤ人というのは国民名ではなく、人種でもない。さらにユダヤ教徒のことでもない、と著者は言う。つまり、「私たちがユダヤ人と名づけるものは、「端的に私ならざるもの」に冠された名だということである」。
こうした考え方を敷衍すると、「昼と夜、男と女、平和と戦争」というジャック・ラカンの対語のリストに、「ユダヤ人と非ユダヤ人」が付け加わるのだ、と著者はいうのである。つまり「ユダヤ人」というシニフィアンを獲得したことによって、「ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである」ということなのだ。難しそうな議論だけれど、言いたいことは、よくわかる。
これは日本人でさえ例外ではない。ロシア革命をユダヤの陰謀である、という説を唱えた樋口艶之介などという人物がいた。これは近代に特徴的な「陰謀史観」である、と著者は言う。いわば近代世界は、「ユダヤ人と非ユダヤ人」の区別を組み込んで誕生してしまったのである。
ユダヤ人は排斥されるばかりではなく、その高い知性を称揚されることもしばしばである。現に、ノーベル医学生理学賞の48名26%(182名中)、物理学賞44名25%(178名中)、化学賞26名18%(147名中)の受賞者がユダヤ人である。「ユダヤ人は世界人口の0.2%を占めるに過ぎない」のに、どうみても異常だ、と著者は言う。
ではなぜ、ユダヤ人はこんなに知性が高いのか。知性が高いから、迫害されるのか。それとも、迫害の歴史を経て、知性が高くならざるを得なかったのか。
著者は、
「ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである」
と大胆な結論を出す。この思考傾向とは「おのれを懐疑せよ、生き方を改めよ、秩序を壊乱せよ、今あるものを否定せよ」と周囲の人には聞こえるのだ、と著者は言うのである。ここらへんの議論には、もう(私も含めて)誰もついてゆけないのではないか。いや、ついていって、ほんとうのところを知りたいのが本音である。
しかし、ユダヤ的知性の思考傾向を、それと名指されても、容易に知ることはできない。いや、ひとつ手がかりがある・・・。
このあと、著者は、自身の研究領域であるレヴィナスを引用して、ユダヤの特異な時間論を展開するのだが、手がかりというのは、これである。・・・きっとそうなのだろうが、あえてそこを通らないでこの文章は終えることにしよう。なぜといって、この本を読む楽しみを減じてしまうから。それに、私にとっても、難しい議論でよくわからないので、この本をもう一度読み返す楽しみでもあるのだ。
一方では、ユダヤ人が近代世界のアキレス腱だとわかったところで、そこを抜け出すには、まだ早い、ということも言えるだろう。ついこのあいだまで、いや、今に至るまで迫害され続けているユダヤ人が、簡単な数行で救われるわけがないのだから。(『ウェブ進化論』のように、オプティミズムを唱える人なら、早々と近代世界を通り越してゆくのだろうけれど、そう簡単にはゆくものか)
著者内田氏が二十年前に、パリのイスラエル同盟に電話をかけたところ、即座に「ムッシュ・ウチダ?・・・・・・あ、このあいだレヴィナスの『困難な自由』を翻訳した人ですね」と答えられた、という驚きを語っている。世界中のユダヤ関連の書籍は、その言語がなんであろうと、調べられている、というのである。こんなことがありうるのだろうか、と著者は語る。
ここから多くの人は、ユダヤ陰謀史観を作り上げてしまうだろう。しかし、著者は冷静にこの瞠目すべき著作を書き上げた。

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