イフ 歌舞伎町で起きた奇跡の物語

昨晩、久しぶりに歌舞伎町ゴールデン街の店「イフ」に行った。
いつの間にか開店3年目になった。
2004年10月にオープンした頃は、ママの元からの知り合いしか客がいなかった。
やっていけるのかなあ、と正直思った。
しかしママ紀江さんの前向きな人柄が男女ともにウケたのだろう。
ママを好きな女性客が多く常連になったことが成功の秘訣かもしれない。
新しい客がどんどん増えて、ぼくら昔なじみは最近ちょっと片隅に追いやられ気味。
開店した当時、まだ真新しいカウンターに座って呑んでいたとき。
たまたま隣に、通信社の東京特派員という人がいて、思いついたのが「イフ」という小説だ。
自分を諜報員と思い込み、世の中すべてをそういう視点でしか見られない。
しかしなぜか、そのカン違いが人の心の真実のもっとも近いところにたどり着く。
誰よりもいい加減でダメそうな探偵や刑事が、誰よりも正確に犯人を見抜く。
そういうパターンの海外ミステリーがある。
もっとも難しい書き方だと言う人もいる。
それを一応はめざしたつもり><;
沢崎という名前はもちろん、原りょうの探偵小説の主人公へのオマージュ。
今のところ第一話から第四話まである。
もう3年から2年近く前に書いたものだけど、もしよければ読んでください。


第一話 東京特派員
 情報には通り道がある。沢崎はよく先輩にそう諭されたものだ。
「普通の人間には見えないものを見ろよ」と言って、自衛隊陸幕二部を辞めた先輩は安居酒屋の天井に煙草の煙を吹き上げた。
 沢崎はその言葉を忘れたことはない。いつも周囲に目を配っていた。何せ公安警察は頼りにならない。あいつらは見えるものしか見やしない。そんなことでこの国の危機情報などわかるものか。
 沢崎は任務がほしいと思ったことはない。任務など機関から与えられなくても、危機情報は至るところにある。それらを一件一件処置していくだけで精いっぱいなのだ。いったい何人のスパイをこの世から追放しただろう。何件の自爆テロ事件を未然に防いできたことだろう。防諜のプロとして、政府に報告したいと思ったこともある。しかし先輩は止めるのだ。
「それはダメだ。公安警察の思うつぼだぞ。お前の存在をあぶり出そうとしている情報も混じっているんだ。公安に身分を明かしたら、次はオレがターゲットになってしまうだろ」
 じつにもっともな話だ。だから沢崎は処置が成功した日の夜は一人で黙って酒を飲む。
 その夜は久しぶりに新宿歌舞伎町に向かった。この日の夕方、沢崎は渋谷の地下商店街にある書店で、女子高生が一人で雑誌を見ながら携帯電話で話しているのを目撃したのだ。書店で雑誌を立ち読みするのは典型的なカモフラージュ行動だ。女子高生が一人で行動することもあり得ない。携帯電話で危機情報を送っていると見て間違いない。沢崎に迷いはなかった。走りに加速をつけてターゲットの携帯電話を奪取すると全速力で地下商店街を駆け抜け、駅の公衆トイレの便器に放り込む。ぢぢという小さな音がして携帯電話が死んだ。処置成功。これでこの国の危機はまた救われたのだ。
 歌舞伎町はしかし目立つ。沢崎は路地に入り、ゴールデン街を目指した。何軒か知った店はあるが、身分が知られているとやっかいだ。酒が入ると身の上話を誰彼となく語ってしまいたくなるのが自分でも欠点だと思っている。酔っぱらって自分でも何を話したか忘れた危険がある店には入れない。
 ふと真新しそうな看板が目に留まる。「if」とある。沢崎の危険察知能力が働きだした。世の中を仮定形で見る態度は諜報員の身に付いたものだ。しかもドアにはわざわざ「Members」と英語で注意書きまであるのだ。「会員制」なら日本人でもわかるが、英語表記にしたということは、日本語をまったく解さない外国人に向けられたものだからに違いない。
 沢崎は結論を下した。この店は国際謀略に関与しているはずだ。そういえば今、ウクライナで奇妙なことが起きているという話ではないか。
 ドアを開け、沢崎の確信はついに揺るがないものになった。店は二階にあり、階段が急傾斜なのだ。むろんこれは無関係な人間を寄せ付けない工夫である。
「いらっしゃい」
 意外にもカウンターの奥にいるのは女だ。新築なのか木の香りがする。八席ばかりのカウンターに男の客が三人、女の客が一人。女の客は男二人の連れのようで、男二人のあいだに座っている。年格好は同じだ。同級生か、あるいは夫婦と男友達か、いずれにしてもこの三人に危険な兆候は見られない。問題は、L型カウンターの短いほうに一人で座っている男だ。金髪の外国人で、日本人三人よりもやや若く、ネクタイを締めずラフな服装で、目の前にある小型モニターで映画を見ている。
 沢崎はほとんど瞬時にこれらのことを視認すると、努めてリラックスした声で言った。
「ママ、今日はじめてなんだけど、空いてる?」
「ああ、どうぞどうぞ。誰のお知り合い?」
 沢崎は不意を突かれた。しかし下手に適当な名前を出しても、かえって怪しまれるだけだろう。
「いやいや、おしゃれな店だな、と思ったもので。飛び込みですよ」
「ホント! ありがとう」
 女がニコニコして言う。何も考えていないような天真爛漫な笑顔だ。カモフラージュかもしれない。沢崎は警戒した。こう見えても、この女が秘密の任務を仲介している可能性が高いのだ。「普通の人間には見えないものを見ろよ」。先輩の言葉を心の中で復誦した。
 日本人三人の背中をすり抜けて、いちばん端の席を選んだ。ターゲットからは遠いほうがいい。
「ショットにしますか、それともボトルで?」
「ええと、じゃあ、それ、ワイルドターキーをオンザロックで」
 我ながら印象に残らない注文ができた。沢崎は納得して、女が氷を砕いてオンザロックをつくるのを見る態勢で、斜め左の位置にいる外国人を観察した。飲んでいるのはライム入りのコロナビールだ。こういう店でコロナビールを飲む客など聞いたことがない。きわめて特異な行動だ。おそらくあれがメッセージなのだろう。今夜は情報がある、と。
 しかしいくら観察しても、男はカウンターにひざをついて一心に映画を見ているだけで、行動らしい行動を起こさない。映画に何かあるのか、と沢崎は気付いた。印象的な宇宙船の映像が目に飛び込み、映画が『2001年宇宙の旅』であることが難なくわかった。日頃の情報収集が思わぬところで役に立つものだ。
「ゴールデン街はよく来るんですか?」
 オンザロックを置きながら女が沢崎に訊く。ターゲットを前にうかつなことなど言えない。できれば黙っていたいし、だいたい祝杯は黙ってあげるというのが沢崎の定めたルールなのだ。
「前に一度来たことがありますね」と無難に答えておく。
「ホント? なんていう店かしら」
 次から次へといろいろなことを訊ねる女だ。
「いやあ、酔っぱらって忘れちゃいましたよ。人の名前を覚えるのは得意なんですけどね」
 しまった! まだ一口も酒を飲んでいないのに余計なことをしゃべっちまった。
「あはは。私の年齢は覚えなくていいからね」
 そう来たか。再び沢崎の警戒信号が鳴った。この女はオレの年齢を聞き出すつもりなのだ。
 と、外国人が行動を起こした。女を呼び寄せる。勘定を払うつもりらしい。これで男がじっと映画を見ている理由に沢崎は合点がいった。もう接触の準備は済んだのだ。ここに必要以上長居して、接触の相手と鉢合わせるのを避ける気なのだ。
 男が帰ると、沢崎は確認作業に移った。まず女に尋ねる。
「ママ、今のお客はいつも来るの?」
 なるべく馴れ馴れしくならないように配慮する。
「ここ数週間は週に三日は来るわね。外国通信社の東京特派員なんだって。家がこっちのほうみたい」
 沢崎が驚くような内容を、女はあっけらかんと答えた。これだけの情報を一見の客に教えるとは、逆に警戒したほうがいいのかもしれない。この女だって荷担しているとすれば、一見の客にディスインフォメーション(欺瞞情報)を伝えることを計算に入れておかなくてはなるまい。
 そうだとしても、外国通信社の東京特派員とは穏やかではない。外国通信社の特派員や大使館の一等書記官がスパイの身を隠す職業であることは防諜活動のイロハだ。どうやら自分の目に狂いはなかったらしい。
「あの人が来たあとに決まって来るお客はいないかな?」
「ああ、いるよお。今日ももうすぐ来ると思うんだよね」
 図星だ。あまりにも図星だ。ターゲット的中。そいつが接触の相手だ。やっぱりこの店のカウンターが情報の通り道になっているのだ。沢崎は小躍りしたい気持ちだった。こうも自分の奸計通りに易々と敵の情報が得られるとは、先輩にどう自慢したらいいものか。
「お代わりはいかが?」
 おっと、興奮して一気に飲んでしまったらしい。
「同じものを」と沢崎は答え、瞬時に計算する。相手がもうすぐ来るということは、情報を奪って処置するチャンスは今しかない。女がオンザロックをつくっている今しか。
 沢崎は隣を見た。三人の日本人は自分たちの話に夢中で沢崎を警戒している様子はない。その瞬間、行動に移した。腰を屈めて女の目から身を隠し、そのままストールを降りて三人の背後を圧倒的なスピードで移動し、外国人がいたカウンターの下へ着く。ほんの数秒のことだったが、沢崎にとっては思考を巡らせるにじゅうぶんすぎる時間だ。
 カウンターの裏側には小さな紙が張りついていた。予想していた通りだ。すかさずはがし取る。紙に書かれたメッセージが、沢崎の目に飛び込んできた。
「森林木工所 2004年10月4日納品」
 なるほど。沢崎は得心がいった。敵は10月4日に行動を起こそうと企んでいるのだ。しかもアジトは森林木工所とある。
 紙を丸めてポケットに入れる。これで敵は暗号を受け取れないだろう。危機は未然に防げた。処置成功。今日は二件目だと思うと笑顔がこぼれた。
 さっきとは逆の動きで席に戻った。ちょうど女が顔を上げて、氷の岩石にワイルドターキーを注ぐところだった。
「ハイどうぞ。ゆっくりしてね」
「ああ。そうしようかな、なんだか飲みたい気分だし」
「そうね。あと一ヵ月でクリスマスだもんね!」
第二話 女の罠
 携帯電話のことを考えると沢崎はいつも頭が痛くなる。どうして誰も彼も無闇やたらと自分の秘密を暴露し合うのか。携帯電話は発着信位置が捕捉されるばかりか、攪乱情報がメールでつぎつぎと流れ込んでくるという。それでは情報機関に操られたがっているようなものだ。
 もちろん沢崎は携帯電話など持ったことがない。もともと諜報活動は人的接触が最上だと信じていた。情報には通り道がある。その通り道をヒューマン・インテリジェンスで見抜くことこそ諜報の王道なのだ。沢崎が人間観察に精通しなければならない理由がそこにあった。顔が見えない、場合によっては会ったこともない相手と情報をやりとりする携帯電話を蔑視してもいたのだ。
 ある夜など、自衛隊陸幕二部を辞めた先輩と飲みに行く電車の中で、沢崎の前に座る全員がいっせいに携帯メールを打っていた。めまいを覚える光景だったのだが、公共の電車の中で相手が大勢では、さすがに沢崎も手が出せない。悠然と大股開きの先輩の手前、都営大江戸線の東新宿駅に着くまで冷静を保つことに努めた。
 先輩が連れて行ったのはスナックだった。仄暗く、煙草の匂いが充満する中で、若い女を隣に置いて飲むのだった。
 内装はとことん安っぽい。先輩はわざわざこんな場所を選んだのだろう。さすがに仮の姿に身をやつす工夫は奥が深い。先輩はいつものように天井に煙を吹きだして過去の輝かしい活躍ぶりを聞かせてくれた。
「名前は言えないがな。昔、自民党の某大物を拉致したことがあってな」
 自民党の某大物とくれば竹下派のボスと相場が決まっている。
「先輩、それは誰の任務で?」
「こればっかりはオマエにも言えないことだ。ヒントだけ言うと、アメリカよ」
 沢崎はたまげた。先輩はアメリカの仕事も請け負うのか。語学力がない自分には到底できないことだ。
「拉致した先は横田基地よ。クロロホルムで眠らせておいて車で運んでな。目を覚ましたら早速拷問だ。ずいぶんきついことをやったものだなあ。ヤツがアメリカ製半導体を日本企業に買わせると約束するまで歯を一本一本抜いたりしてな。大の男が泣き喚いてよ、ふははは。まったくあの声は忘れられないな」
「先輩が直接手を下したんですか」
「まあな。今でもやれるぜ」
 さすがに先輩クラスが施す処置は大仕事だ。ううむと沢崎は感に入ったのだが、どうも先ほどから先輩に太股をなで回されている女が白けきった表情でいるのが気に入らない。これほどビッグな話を聞いても何ともないのか。身をよじって恐がるとか、頬を紅潮させて尊敬するのが女だろう。
 先輩がトイレに立ったので、この女を叱責しようとする寸前、沢崎には信じられないことが眼前に起きた。女が携帯電話を取り出し、メールを打ち込もうとしたのだ。
 これは、関心ないふりをして今の先輩の話を仲間に伝えようとする特異な諜報行為だ。タイミングからいって、それ以外に考えられない。
 沢崎には瞬時の迷いもなかった。鍛え抜かれた動きで携帯電話を奪い取る。
「説明しろ」
 何が起きたかわからぬ風情の女に向かって沢崎は携帯電話を掲げた。
「誰に頼まれた」
 こういうときは単刀直入に訊くのがいい。
「返してよ、それ」
 女はにこりともせずに言った。マスカラで強調された大きな目を泳がせもしない。かなり訓練されているようだ。沢崎の危機察知能力に火がついた。
「理由と場合によるな」
「何言ってるのよ。携帯で時計を見ようとしただけじゃんっ」
「理由になってない。しゃべらなければ返さない。この店の中でしゃべれないなら、いっしょに外に出よう」
「はあ~、ナンパ? 私を連れ出す気? 言っとくけど、私の彼氏はアメリカの弁護士よ」
 本人は脅しのつもりなのだろう。しかし沢崎には通用しない。つまりこの女の仲間は弁護士をしているアメリカのエージェントで、極秘情報の漏洩を監視するアメリカの防諜活動の邪魔をするなと沢崎に言いたいのだ。諜報活動に携わる人間どうしでなければ気付かない微細なメッセージである。
 沢崎は大仕事の予感がした。ここは勝負所だ。
「それがどうした。アメリカの弁護士だったらオレも二、三人知っている。まず事務所の名前を言ってもらおうか」
「なんであなたに教える必要あんの」
「名前を言えないわけだ」
 いきなり女が手を挙げた。
「ちょっと店長お~」
 沢崎に一瞬の迷いが生まれた。女から今この携帯電話を奪い去り、発着信履歴を調べれば、アメリカの防諜活動の一端が分かるだろう。情報はギブ・アンド・テイクで成り立つ。先輩が仕事を通じて得たアメリカの情報をどこまで第三者に利用しうるかわかるわけだから、先輩の役に立つこと必定。しかしトイレに立った先輩を置いていくのはいかにもマズイ。それでは逆に先輩の正体がこの女にバレてしまう。
「お客様、どうなさいました」
 店長だという顔の大きな男が腰を屈めて沢崎に訊く。仕方ない、ここはいったんこの男に場を預けよう。
「彼女が携帯でメールをしようとしたのだ。オレが難詰すると、自分の彼氏はアメリカの弁護士だと自慢した」
 店長の顔が曇った。それは当然だろう。若い女だからといって容赦しない沢崎のような客は滅多にいないだろうから。
「それは本当に申し訳アリマセン。ですがこの娘の携帯電話はいちおうお返しください。それと……めぐさん、ちょっと来て」
 女は沢崎から携帯電話を受け取ると、にらんだ顔のまま店長といっしょに従業員用の小部屋に立ち去っていった。処置不首尾。そんなこともたまにはある。もうこんな店に長居などしたくはないのだが、先輩がいつまでたっても戻ってこない。思わず沢崎もトイレに立つ。
「先輩、どうしました?」
 声が聞こえたのか先程の店長が沢崎の元にやって来た。
「お連れさん、もう帰りましたよ」
 おや、いつの間に行動を起こしたのだ。あの話をしたあと女がスパイだと気付いて、トイレに立つふりをして店を出た。そして防諜行動に移行したにちがいない。先輩らしい、あまりにも鮮やかな手腕だ。
「で、お連れさん、お支払いがまだなんです」
 それはそうだろう。時間との戦いなのだ。
「ですが、今日は結構です。接客中の携帯電話使用は店の服務規約に反していますし、自分の彼氏をお客様に自慢するなどもってのほかですから。あの娘には罰金を科しましたので、どうかご勘弁下さい」
「さっきの娘はどこに?」
 気になるのはそれだ。逃亡したとなるとやっかいなことになる。
「私が叱りましたら、気分が悪いとか言うので帰しました」
 やられた。今頃は、先輩が極秘であるはずの横田基地の任務を別の諜報活動従事者に漏らしていた事実が、アメリカの弁護士を名乗るエージェントの耳に入ってしまっているだろう。こんなことなら無理にでも携帯電話を奪っておけばよかった。先輩の防諜工作が間に合うことを祈るしかない。
 沢崎はちょっとした敗北感に包まれながら店を出た。ふとさわった胸ポケットの中に名刺があった。店に入ってすぐ、あの女に名刺をもらっていたのだ。
「めぐ 月水木に来てま~す 電話してねぇ~! 090-15××-83××」
 罠だ。連絡させて監視するつもりなのだ。これだから携帯電話は嫌いなのだ。
 沢崎は名刺を財布の奥にきちんとしまった。
第三話 ザボン
 鰻の寝床のように長い「ザボン」のカウンターに、沢崎は女といた。女は先輩行きつけのスナックで出会っためぐだ。
 沢崎は、めぐが先輩の正体をどこまで知ってしまったのか確認するつもりだったのだ。もらった名刺の電話番号にかけると、女はすぐに日にちと時間を指定してきた。歌舞伎町で木曜日に6時半ね。「そのあと店に来てくれる?」
 むろんそんな気はなかったが、いったん相手に従ってみせ、出方を観察するのも沢崎の重要な諜報活動だ。
「お腹空いたあ」
 携帯電話を処置しようとした沢崎にいい印象を持っているはずはないのに、女はすぐに打ち解けた。アイシャドウが濃い上に大きい色つき眼鏡をしているのは変装のためだろう。店で会ったときとは身なりがずいぶん違う。
「寒いからラーメンにしようか」
 女の提案にも沢崎は頷いたが、店だけは変えさせた。この女の息がかかった店では盗聴されかねないからだ。
「あたしクビになりそうなの」
 ラーメンを注文すると女は沢崎に言った。
「どういうことだ。この前の一件が原因か」
「違う違う。あたしが連れてくるお客が少ないからよ」
「俺といっしょに行った人は常連だろ」
 探りを入れてみる。
「常連といっても、あたしが席についたのは何回もないわ」
「どんな話をして?」
「忘れちゃったわ。いちいち気にしないし」
 そんなはずはないのだ。しかしこの女がそう簡単に口を割るはずもなかった。
「アメリカの弁護士とやらはどうした」
 ちょっときつい言い方だったか。沢崎の不安をよそに、女は笑った。
「ふふ、あなた信じたの? はったりかましただけだよ」
「どうしてそんなはったりを言う必要がある?」
 女はぷっと吹きだした。
「前もじつは思ったけど、あなたちょっと面白いね」
 どういう方向へ話を誘導しようとしているのか、沢崎は女のことがわからなくなった。この女に会話を支配されるくらいなら、探りを入れるのではなく単刀直入に言ったほうがいいらしい。
「俺はオマエのことをもっと知りたいのだ」
 オマエの秘められたミッションを。そして先輩の秘密をどこまでアメリカに売ったのかを。
「オマエは俺といっしょに行った人物のことをどこまで知っているのだ」
「だからぁ、顔を見ればわかる程度よ」
「質問を変えよう。あのとき携帯で誰にコンタクトした?」
「こんたくとぉ?」
「いつまでとぼけるつもりだ。オマエは俺といっしょにいた男を殺ろうとしたんじゃないのか」
 女はまじまじと沢崎を見つめた。やはり図星か。沢崎の身体をアドレナリンが走る。
「……あたしが……あのオジサンと……ヤル?」
「察知して、彼は事前に店を出た。あの人はオマエに殺られるほどヤワではないのだ。そうオマエの仲間に言っておけ。もう狙うのはやめるんだな」
「……あたしが……狙う…?」
 女はそう言って黙ったあと、カウンターに頬杖をついた。
「あなたヘンよ。あたしのこと知りもしないで」
 知っているぞ。知っているが口に出せないのが諜報員の掟ではないか。沢崎はぐっと堪えた。
「あたしの言ってること相手にもしないで。どうせそう。皆が皆、あたしなんて相手にしない。あたしの言うことなんて本気にしない。ただのキャバ嬢だろって」
「キャバかなんだか知らないが、オマエの仲間がいるだろう」
「いないわよ。だって誰もあたしに会いに店に来ないのよ」
 女は眼鏡をはずして、いきなり両手で顔を覆った。
「あたしなんて、要らないじゃん、この世に」
 何を言っているのだ。クライアントにとって必須の情報源ではないか。
「誰もあたしのことなんか心配じゃないのよ」
 クライアントは必死になってオマエを獲得したのではないか。
「この世にいなくてもいいのよ、あたしなんて」
 いなくなればクライアントは接線を失うではないか。
「何を言う。オマエはとても必要なのだ」
 クライアントであるアメリカの情報機関にとってな。
「……本当にそう思うの?」
 どういうつもりなのだ。どういうつもりにしても、その手には乗らない。
「ねえ。どうなの」
 女がじっと沢崎を見つめる。
「オマエを必要とする人間のことはわかっている」
「……何を言ってるの?」
「そこまで言うつもりはない」
 女の眉間にしわが寄る。
「あなたはどうなの? あたしが必要?」
 そうか。そういうことか。ようやく沢崎は気付いた。
この女のミッションは沢崎の獲得なのだ。獲得工作員なのだ、この女は。
「オマエの気持ちは読めたな」
 思わず口にした。女の顔に驚きが広がる。その手に乗るつもりはないのだ。それだけは思い知らさなければならない。
「オマエの目的もわかった。だが生憎、俺は組織に属すつもりはない」
 そう言って、あえて決然とした態度で沢崎は席を立った。これでいい。まだラーメンが来ないが構わない。俺は自分をアメリカに売るつもりはないのだ。
 しかし、沢崎の獲得に失敗したことがわかったら、この女は無事で済むのか。自分と同様の境遇にあるかもしれない諜報員が酷い目にあうのを、沢崎は想像したくなかった。
「もう一つだけ言っておく」
 女を見おろす格好で沢崎は言った。
「死ぬな。わかったな」
 絶対に死ぬなよ、めぐ。
第四話 店長の恋
 まだ若い正社員の長谷部咲子から急ぎ相談したいことがあると言われたのは、昨夕のことだった。
 咲子からの相談とは、沢崎にとってじゅうぶん警戒に値することだった。しかしすでに沢崎はその夜のミッションを渋谷センター街方面に定めていた。「それなら明日の午前中に事務所で」と言ったのだが、それが咲子にとってもちょうど都合がよかったことは、その相談事を咲子から打ち明けられた今、沢崎にも知れた。岡田店長の出勤が午後になっていたからだ。
 沢崎が諜報員であることを隠す世を忍ぶ姿は、新宿西口の小滝橋通りにある中規模書店のアルバイト店員である。もう七年近くになる。本屋の店員を選んだのは諜報資料の閲覧や対象者の割り出しに不自由しないためだし、正社員でなくアルバイトを続けているのは、もちろん諜報活動に割く時間に支障を来さないためである。
「沢崎さんは誰よりも昔からここにいる人だから、相談したかったんです」
 たしかに岡田店長が書店本部からこの店に来たのは、つい三年くらい前だし、咲子は一昨年入社して赴任したばかりだ。あとの店員も、社員にしろアルバイトにしろ、沢崎の七年より長くいる人間はいない。
「ここに来た頃はどうってことなかったんです。でも半年くらい前から店長が私を見る目がヘンだったんです。そうしたら、これ見てください」
 咲子は沢崎の隣に座り、自分の携帯電話を差し出した。天敵を目の前に突き出されて愉快ではないが、咲子がつぎつぎに見せる携帯メールの内容は、つまり一回り年齢が上の男が若い女に強引に交際を迫る以外に解釈しようがないものだった。
 沢崎は改めて咲子の横顔を見た。年齢は二十五だったか。化粧気はない。髪の毛も真っ黒だ。色白で小柄、その上ぺったんこの靴を履くので余計に小さく見える。言いたいことを大声できちんと言う。本屋で働く女によくいるタイプだ。
 しかし沢崎が咲子の相談を警戒していた理由は、色恋沙汰に巻き込まれる危険があるからではなかった。彼女が大学時代に一年間、ワシントンの米国政府系研究所に留学していたからだ。優秀な姉がいたので、と聞かされた記憶はあるが、そんな経歴を持つ若い女が、有数の全国チェーン店とはいえ新宿の本屋の地下事務所で働いているのだ。これほど沢崎の危機察知能力を刺激するものはない。事実、公安とおぼしき男が店に入ってきては彼女の姿を横目に立ち読みをしているところを沢崎は何度か視認しているのだ。
 その咲子の相談が店長のセクハラとは。何か別の意図があるに違いない。セクハラなどカモフラージュで、店長を追い出す別の理由を隠しているのだ。
「たしかにわたしは店長と三回、飲みに行ってるんです。でも三度目にホテルに連れ込まれそうになって、それも無理矢理で、わたしこういうのはぜったいにイヤだと言ったんです」
「一つ訊くが、店長も年齢は上だが独身だ。こういうのとは、どういうことをいう?」
「だから同じ職場で、しかもわたしは店長とそういう関係になるなんて想像できないし」
「では、なぜ行ったのだ」
「店長に言われたら、なかなか断れません。それくらい沢崎さんだってわかるでしょう?」
 もちろん沢崎も理屈なら理解できる。だが沢崎の場合、身を隠すための書店勤務なのだから、店員と個人的に親しくなることなど許されない。ましてや恋愛などあり得ないことだ。だから店内では仕事以外のことを、今に至るまで誰とも話すことはなかった。
 それで不都合や寂しさを感じたことはない。仲間と楽しく打ち解けることによって失うものがいかに多いか。諜報員には日常生活の潔癖さが求められる。簡単に女と寝るスパイなど堕落以外の何ものでもない。感情で情勢分析を誤ってはならないし、防諜戦の相手に対しては非情に徹しなければならないのだ。
 だから沢崎には岡田の行為が感情に振り回された結果としか見えないし、それになぜ咲子が付き合わなくてはいけないのか、合点がいかない。
「わからないでもない。しかし店長の言うことも聞きたい」
 そのほうがこの女の隠れた意図を知る早道かもしれない。
「今夜、店長を誘って話を聞くが、いいかな?」
 咲子が横からぴたっと沢崎を見据える。
「それでこのセクハラが止まるなら。わたし本当にどうしていいかわからないし、最近の店長、わたしにつらく当たるし……わたしはここにいたいんです。こんなことで店を異動させられるのはイヤなんです。ちゃんと解決してからならいいけれど、行く先々で何言われるかわからないじゃないですか」
 こうして沢崎は岡田と酒を飲むことになった。「長谷部さんから相談を受けました」と沢崎が言っただけで、岡田は驚愕の表情を浮かべたものだ。男二人が話すところなど、職場の外には飲み屋しかない。そして沢崎にとって新宿で安全な飲み屋といったら、昨秋、情報の通り道を完全に断ちきったゴールデン街の「イフ」しかない。
 沢崎は岡田に簡単な地図を渡し、その日の清算をしなくてはいけない岡田を残して先に「イフ」に向かった。できれば身を隠す先の人間といっしょに人目のある通りを歩くことは避けたかったので好都合だった。区役所通りを歩き、周囲に監視の目がないことを確認した上で、迷わず「イフ」に着いた。店の階段を昇りきる。
「いらっしゃい」
 見覚えのあるママの顔がある。一瞬、怪訝な表情になった。
「ええと、どちら様でしたっけ」
 よし。沢崎はほくそ笑んだ。覚えられていない。諜報員は顔を覚えられてはいけないのだ。
「前に一度来た者だ」
「そうでしたっけ。ごめんなさい、じゃボトルは入れてないわね」
「いいんだ。ビールをくれないか」
 店の隅に若いカップルがいるだけだ。接線を断たれて諜報活動に従事する客が減ったのか。
 ママはビールとグラスをカウンターに出し、ビールを注ぐ。そのままニコニコしながら前に立つ。カップルが二人で盛り上がっているので客は沢崎一人しかいないも同然のようだ。ちょっとした計算違いだった。
「最近、なんか退屈してません?」
 仕方ない。どうせもうすぐ岡田が着くのだ。それまで少しこの女としゃべってみようという気持ちになった。
「どうも政情が安定しているからな。ただこれは見せかけだと思うのだ。退屈と思ったときほど用心しないと、気付いてからでは手遅れになる」
「あのさ、そんな大層なことじゃなくてさ、もっと普段のことよ」
「しかしこの仕事は大層なことと普段のことの敷居がないからな」
「あら。楽しそうね。何のお仕事なの」
 おっと。この女に素性を探られてどうする。
「本屋で働いている」
「なるほど。難しい本ばかり読んでいるから話が妙に大げさなのね」
「違うな。本屋は本を売るのが仕事で読むのが仕事ではない」
「はいはい、わかったわよ。じゃあどうしてかしら、大げさなのは」
 いやに話を振りたがる。だから退屈している女は苦手なのだ。
「それは何を見ても世の中の仕組みを考えるからだ。たとえば、最近偽札が多く見つかっている。どうして偽札が多いのか。俺はこれを日本銀行の陰謀だと考えている」
「はあ? だって日本銀行はお金を出すところでしょ。それが偽札作ったらマズイんじゃないの」
「誰も日本銀行が作っているとは言ってない。誰かに作らせ、それを黙認しているのだ」
 女がまた怪訝な顔をした。
「どうしてそんなことがわかるの」
「考えてもみろ。どうして日本銀行は新札なんか出したんだ。旧札を使えなくするためだ。つまりタンス預金をじゃんじゃん使わせたいからだ。使えない札などただの紙切れだろ。たとえ政府が新札と交換可能にしても、その交換率を下げたらどうする。1万円を9000円としか交換しなかったら、やっぱりそんな札はいらない。だから旧札など使うしかなくなる。消費が増える。究極の景気対策ってやつさ」
「古いお金が使えなくなるの」
「そうしたいのは山々だが、そんなことしようとしたら反対されるに決まっている。ところが旧札の偽札が出回り過ぎたらどうなる。旧札を使用禁止にしても国民は納得するだろう」
 下から階段を昇る足音が響く。
「いらっしゃい」
 岡田が顔を出す。
「あ、沢崎さん。こんなとこ、よく知ってるね。迷ったよ」
「お連れさん?」とママが沢崎に訊く。
「ここで待ち合わせだ」
「へえ、うれしい。一度来ただけなのにお二人で来るなんて」
「あまり店を知らないもので」
「ま、なんでもいいや。気にしないから。どうぞ、何にします?」
「俺もビールを」
 ママが岡田にビールを出したところを見計らって、沢崎は単刀直入に言うことにした。
「店長が長谷部さんに惚れていることはわかります。けれども、あの携帯メールはちょっとどうでしょうか」
 とたんに岡田が唇を噛む。
「もちろん俺と彼女は何の関係もありません。そうなろうとも思いません。俺がたまたま店に長いので、彼女から相談を受けたまでで……」
「あのさ、俺ね。彼女が誰か男と楽しそうに話していると、気が気でなくなっちゃうんだよ。頭が狂いそうになるんだよ。でも面と向かって言えなくて、それでメールなんかしてさ。あと少しで四十が近いってのにこんなの、恥ずかしいんだけどさ」
 そこで岡田はぐっとビールを呷る。
「沢崎さんが何を彼女から聞いたかわからないけど、三度ばかり二人で飲みに行ったことがある。沢崎さん気付いてた? いきなり最初の夜に俺たちはキスしたんだよ。それなら本気にするだろ、男なら普通」
 自嘲するように言って、ビールを一気に飲み干す。
「二回目は一週間後だ。二人別々に店を出て、飲んで、それから彼女の家の近くにある公園でお互い身の上話をして、キスしまくってさ。さらに一週間後、デートしてラブホテルに行こうとしたら路上でわあわあ騒がれた。もう二人きりで会うのはやめましょうってさ」
 ママがおかわりのビールを岡田に差し出す。
「住所わかってるから、休みの日にマンションの前まで行ったこともある。それ以上のことはできなかったけれど、帰り道、虚しくて虚しくて仕方なかったよ。なんかダメなんだ。フラれた気がしないんだ。だから店でも厳しく当たるようになってさ。彼女に怒っても仕方ないんだけど、だったら何であんなことしたんだって言いたくなるんだよ」
 岡田は感情の虜になっている。感情のために目が見えなくなっている。沢崎にはよくわかる。諜報員にとってもっとも重要なことは、感情のコントロールだ。感情は人間の判断を狂わせる。見るべきものを見えなくする。満たされない恋愛のために、この男は何の解決にもならないことをしている。
「だったら店長、異動を本部に願い出るべきではないですか」
「俺が異動を? 彼女ではなくか」
「彼女はずっとあの店にいたいと言っている。それを尊重しないのはまずい」
「それじゃ俺の面目が立たないじゃないか。本部に何て言う」
「そんなことで判断を間違えてはなりません。店長は彼女に対する感情のせいで何も見えなくなっている。彼女は店にとって危険な存在であることを見失っています」
 岡田は探るような顔になった。思った通りだ。岡田は本質的な問題がまるで目に入っていないのだ。ということは、この男から彼女のミッションを知ることもできないのか。
「店長も彼女の経歴を履歴書で知っているでしょう。これ以上はここで申し上げられないが、きわめて危険な人物を店に置いていたことが、この一件でとうとう白日の下にさらされた。そう考えるべきです」
「……ちょっと俺には沢崎さんの言っていることがわからない。危険って何だ?」
 アメリカは終戦直後から日本人の思想と意識を調査し、日本人の洗脳プロパガンダを続けている。これに従わない日本人は誰か。それをあぶり出すために右翼系を装った出版社に国家主義的な本を出させ、購入者をチェックする。知れたことだ。
その先兵としてワシントンで教育を受けた長谷部咲子が送り込まれた。彼女の経歴から見てあまりに不自然な仕事から推測すれば、当然わかるシナリオである。彼女は危険極まりないアメリカのスパイなのだ。
 しかしもちろん、そんなことを告げるわけにはいかない。それでは沢崎の極秘ミッションを暴露するも同然だ。むしろいよいよ危険な本性をあらわした長谷部咲子を自らの監視下に置き、その活動を挫くほうが優先順位が高い。それを考え、沢崎は咲子が使ったのと同じカモフラージュをすることにした。
「セクハラ訴訟です。それであなたは容易に職を失う。もし彼女を異動させたりしたら、その危険は増すでしょう。だからここは店長が身を退いて、早く異動を願い出ることです。そしてその理由を彼女にしっかり説明すればいい」
「俺に身を退けというのか。でも沢崎さん、だったらさ、あの彼女のキスはなんなわけ」
「面白そうな話してんじゃん」
 いきなりママがカウンター越しに沢崎と岡田のあいだに顔を突っ込んでくる。しまった。聞かれたか。沢崎は自分の迂闊さを呪った。
「でもさー、しょうがないじゃん。だって彼女、あなたのことが好きじゃないんでしょ? そんなキスくらいで女を追いつめたらダメよ。彼女のことは諦めたほうがいいよ」
 身も蓋もないな。なさ過ぎだ。
「男だって女だって、諦めないと次に行けないよ。あなたもホントはさ、彼女とのこんな状況を早く変えたいんでしょ。だったらそうしようよ。あたしは別れた男と友達になってるよ。ひょっとしたら彼女と友達になれるかもしれないじゃない。彼女は男女関係がイヤだと言ってるだけなんでしょ? もしあなたのすべてがイヤだったら、とっくに辞めてるわよ」
 それは違うな。たとえそうでも彼女が店を辞めることは絶対にないのだ。ミッションとはそんな一時の感情で変えられるものではないのだ。
 しかし岡田は黙って聞いていた。
「ママさん、俺は何も告白していないのに、まるで人の心を見透かしたようなことを言うんだな。俺はどうかしてたな。俺にも立ち直るチャンスがあるというわけだ」
 岡田はそう言って携帯電話を取り出すと、忙しく操作を始めた。ママが沢崎の耳に顔を寄せてささやいた。
「メール消してるみたい。よかったね」
 沢崎はうなずいた。こうしてまた一人、極秘情報を扱う世界にいられない人間が、一見平穏に保たれた日常に戻っていくのだ。

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