キャラって、何?

若者言葉で頻出するものの一つに、「キャラ」という言葉がある。”言葉がある”なんて、大上段に構えて論じることもないのだけれど。無論、キャラクターの略で、「ゆるキャラ」とか「頼られキャラ」とか、「アニメキャラ」とか最後のはそもそもリファレンスするアニメを知らないと、どういうキャラクターなのか、皆目見当もつかない。
企業組織の中でも、若者が流行らせたおかげで、「あの人のキャラは~」などと発言する輩も多い。キャラとは、いわばレッテルであり、本来、多面的である人のごく一部の属性を取り出してそう表現しているだけである。しかるに、一度、この「キャラ」を命名されたが最後、彼(あるいは彼女)の属性は、これと決められてしまい、容易にそのイメージを破ることはできなくなってしまう。下手をすると、期末の評価にまで影響しかねない(というのは大げさか)。「キャラ」はほんとうにあるのだろうか、というのが今回のテーマだ。


というわけで、この「キャラ」はひどく迷惑千万なものなのだが、人の行動傾向を科学的に分析して、人材開発に役立てようという真面目なアプローチもある(ジョン・ガイヤー博士のDiSC理論など)。これにより、上司と部下の関係をよりよくしたり、セールス戦略を練ったり、顧客アプローチを考えたり、ということが可能になるという。個人的には、あまり可能になってはいないのだが。
不真面目なアプローチとしては、「動物占い」が有名だ。なぜ不真面目かといえば、この占いが、「陰陽五行説」を基にして、易や四柱推命などを用い、さらには何千件という統計データを元に開発した、ということから明らかだ。なぜ、陰陽五行にわざわざ統計データが必要であろう。眉唾なので、ほんとうらしく科学を装っただけである。が、なぜか、本来は科学的なはずの、”行動傾向の科学的分析理論”と隔たりを感じさせないところもあったりするのだ。早い話が、誰々さんは○○型とか、○○タイプ、と呼ぶところは、○○さんはゾウだとか、タヌキだとか言うのと、本質的には変わりはないであろう。
さて、「キャラ」という考え方は、ひとりの人の行動傾向は、あらかじめその人の中に内在するというものだ。すなおに性格と言っても、同じこと。そもそも、ある人の性格、といえば、その人物の継続的な感情的、意志的傾向を言うが、この「継続的」というのがけっこうあいまいなのだ。継続的に同じ行動傾向を示すのは、ある社会集団の中においてのみ、ということだって、けっこうある。
いや、むしろ、性格だとか、パーソナリティは、一個人に内在するものではなく、関係そのものなのではないか、と考えたのが、アメリカの人類学・社会学・言語学・サイバネティックスなどを研究したグレゴリー・ベイトソンである。彼は、多くの分野を研究したが、そこに流れる研究テーマは一貫して、精神(mind)の研究、すなわち精神の形態を取り出すことだった。
彼によれば、「関係とは、一個の人間の中に内在するものではない。一個の人間を取り出して、その人間の”依存性”だとか”攻撃性”だとか”プライド”だとかを云々してみても、何の意味もない。これらの語はみな人間同士の間で起ることに根差しているのであって、何か個人が内に持っているものに根差しているのではない」ということだ。
すなわち、人間個々の性格が、ある行動を引き起こすのではなく、人間同士が取り結んだ関係から、行動が惹起されるのだ、というわけだ。そういえば、小林秀雄も、ちょっとニュアンスはちがうが、同じようなことを言っていた。
「人がある好きな男とか女とかを実際上持っていない時、自分はどういう人間かと考えるのは全く意味をなさない事ではないのか」(「Xへの手紙」)
無論、小林秀雄は、精神の形態がどうであるとか、関係から性格が導き出されるとか、そんな文脈で語ったのではないだろうけれど。
ベイトソンは続けて言う。
「・・・ニューギニアでの研究資料と、その後得られた多大な資料は、個人の”プライド”なるものを持ち出してその人間の誇りに満ちた行動を説明したり、個人の本能的な”攻撃性”なるものを持ち出してその人間の攻撃的行動を説明したりすることが、いかに空虚で無意味なことかを私に教えてくれた。この種の説明は、人間関係の場というものからわれわれの注意をそらし、内的傾向とか某々素とか本能とかいう幽霊に目を向けさせ、事の本質を隠蔽してしまう、ナンセンスの骨頂であることをここに提言しておきたい」(グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』(思索社)
ベイトソンが言う、「内的傾向とか某々素とか本能とか」というのが、「キャラ」である。ひらたく言って、ある人の「性格」だ。しかし、人間の行動の説明に、「キャラ」なんて持ち出すのは、事の本質を隠蔽することだ、すなわち人間関係の場というモノを見過ごすことでしかない、というのである。
だから、企業組織にいるビジネスマン諸君も、ここのところ、よく考えてみて欲しい(と、偉そうに言ってしまうのだ)。君の隣にいる、君がうんざりしている相手は、別に特定の(君が忌み嫌う)キャラを持っているのではなしに、君と相手との関係がそうしているのだ。昨日の敵は今日の友。
あるいは逆に、君がまったく苦手とする上司は、性格の不一致などではなしに、関係がうまくゆかないのである。現に、今の世の中、君と上司の立場が逆転することなど、大いにありうるのだから。すなわち、君が上司になり、かつての上司が部下になる。そのとき、かつての関係は逆転し(なんだか、ヘーゲルの主人と奴隷の論理みたいだが)、それぞれがまるで別の「キャラ」をあらわにするだろう。しかし、それは君たちに元々内在していたものなどではなしに、関係がそうさせたのである。。。などなど。
人に「キャラ」などがあるのではなしに、人間関係の場が行動を強いているのだ、という説明は、奇異に感じられることだろう。しかし大事なのは、人間関係の場を読み取る感受性であって、誰か同僚にルサンチマンを感じたら、ベイトソンのひそみを思い出して欲しい、ということである。

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