『売れないのは誰のせい?』山本直人(新潮新書)

身につまされるタイトルだ。現に、今年に入って、「売れないのはおまえの(おまえの部門の)せいだ」と何度詰問されたことか。。。いや、これは私事なので、どうでもいいことだが。
売れないのは販売のせいだ、いや、開発のせいだ、販促が悪かった、などと責任のなすりつけをしあうのは、実にネガティブなことだ。「今回は売れなかったけど、次回はがんばろう」がポジティブな発想というものだろう。売れれば、「わが営業部の販売力のせい」だったり、「商品力の賜物」だったり、口々に言い募っても、結局は笑っていられるのであるが。。。
。。。いや、しかし、商品が売れなかったときこそ、日ごろの秘められた感情があらわになる。歳寒くして松柏の凋むにおくるるを知る、だ。危難のときこそ、人の真価がわかるものだ、という論語の言葉が身にしみる。(意味はWikipediaなどで調べてください)危難の時に限って、口汚い罵りあいが始まるのである。「売れないのは誰のせいだ!」と。


この本のマーケティングの視点は実にオーソドックスだ。「マーケティング活動をおこなうためには、四つのPの観点でもっとも効果的な手を打っていく」と書いてある。ポストモダン・マーケティングみたいなあざとい手法が出てきたら、面白くはあるけれど、役に立つ本ではないだろう。
さて、本書では、バブル崩壊以後、ふつうのやり方ではモノが売れなくなったが、その原因は3つに集約されるという。
1.競争が激化した
2.社会が成熟した
3.情報環境が激変した
当たり前のようなことだが、言ってみれば、日本ではこのときからマーケティングが始まったのである、というのが著者の主張だ。いわば、それ以前、モノの不足していた時代の日本には、マーケティングはなかったのである。
モノが売れるためには、人の「記憶検索エンジン」の上位に、そのブランドが記銘されていなくてはならない。そのブランドを人が選ぶ価値の基準は、ひとつは機能の価値であり、もうひとつは情緒的満足の価値、すなわちイメージの価値である。
とここまでは当たり前のマーケの教科書なのだが、著者が提示するテレビCMの変遷の分析にはなるほどと思わされた。ひとつはスズキのソリオという車の宣伝で、再婚家族に新しい父親が新車に乗って現れる、というものだ。いや、こんなCMは見たことないので、売れはしなかったのだろうが。つまり、社会の成熟がついに再婚家族が乗る車まで作り出した、ということだろう。
もやしの広告で、「高いから買うなよ」というCMを売ったら、かなり売れた、というのも情報環境が変わったことの証左だ。著者は「一般消費財のように購買にともなうリスクが低いときほど、商品認知を目標とした情報受動型の広告効果は成立しやすく、タレントを起用した場合はその成功率は短期的に向上する」と言っている。この言葉は、マーケターの至言だろう。さきのもやしだって、買って失敗したら、やめることができるから、試しに買われたのだ。テレビCMは、一般消費財でこそ高い効果を上げるということだろう。
だから著者は「テレビは本当に強いのか」というのである。現代の日本のマーケティングでは、情報環境がもっとも変化が大きい。普通にテレビCMを流すことによる効果が限定的であることに、多くの人が気づいてきた、と著者はいう。そうして、人は何かを買おうとしたときに、自らインターネットで検索を始めるのであって、今までのように情報受動型のテレビCMで購買行動がおきにくくなっているのである。
こうしたことの好例が、チョコレート、キットカットの事例である。発売からかなりたって停滞していたこのチョコは、10代の若者に知名度はあるけれど買われていなかった。そのため、高校生が一番ストレスを感じる受験に着目。福岡の太宰府で、「きっと勝つ」という駄洒落でお守り代わりに位置づけ、口コミで全国に普及して行ったのである。
と、ここまで読んできて、そうか、テレビCMに金なんてかけなくていいんだな。そうか、キットカットか。わが社の商品でも駄洒落は使えないものか、とかなり考えた。きっと、電車の中でもぶつぶつ商品名を唱えていたかもしれない。
が、アイディアが出ない。そうか、やはり売れないのは私のアイディアの貧困さのせいなのか、と改めてため息が出るのである。そう、この本、読んだからといって、うまいアイディアが出る本ではけっしてないのである。売れない理由はわかっても、売れる理由はそうそう転がってはいないのだ。

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